15. 深淵

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✳︎ 梓が戻ったのは昼すぎだった。 その頃文太はトイレの掃除をしていたから、気づくのに時間がかかった。 受付から複数人の声がして、慌てて合流した時には、岳と須崎、その一歩後ろから見守るような形で、奈良と楠本が、梓を取り囲んでいた。 隙間から見える梓は、頬に傷があるが、自分の足でしっかりと立っている。 そして、その隣で彼を支えるようにして背中に手を当てている須崎。 無事であったことに安堵しつつも、文太はなんとなく、その輪の中に入っていくことができなかった。 「匠、ありがとな。どこで合流できた?」 「(さび)尾根の取付らへん。この天気のなか、あの岩場を下降するって言って聞かないから、力尽くで連れて帰ってきた」 「とにかくよかった。怪我は?」 「ああ、そのときに軽い落石があって頬にかすり傷あるけど、それ以外は大丈夫」 梓の状況について話しているのに、岳と須崎、言葉を交わすのはそのふたりばかりで、当の本人は黙ったままだ。 しかし、今のふたりの慣れた態度から察するに、こういったシチュエーションには何度か出くわしているのだろう。 それに比べて、おそらく初見であろう奈良と楠本には、明らかな動揺が見られた。 「とにかく入りなよ。匠も疲れてるだろ」 「ああ。ちょっと従業員部屋借りる。お前らも仕事あるだろ? あとは任せてくれていいから」 「うん。じゃあこれ使って」 須崎が岳から救急箱を受け取ったのを合図に、彼らを囲んでいた人の輪が消え、文太はそこでやっと、梓をしっかりと捉えることができた。 彼の目は、いつぞやのように漆黒に染まり、温度が感じられなかった。 ふと、梓が視線を上げる。 「あ……」 名を呼ぼうとしたが、うまく声が出ない。 目が合っても、彼のそれに温度がもたらされることはなかった。 なんで? いったいどうして———— 彼に対する問いかけは、膨らみかけはするものの、虚しく萎んでいく。 今の自分には、固く閉ざされた梓の、その輪郭にふれることすらできない。 一度身を投じたプールの深さを、文太は身をもって知るのだった。
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