558人が本棚に入れています
本棚に追加
✳︎
梓が戻ったのは昼すぎだった。
その頃文太はトイレの掃除をしていたから、気づくのに時間がかかった。
受付から複数人の声がして、慌てて合流した時には、岳と須崎、その一歩後ろから見守るような形で、奈良と楠本が、梓を取り囲んでいた。
隙間から見える梓は、頬に傷があるが、自分の足でしっかりと立っている。
そして、その隣で彼を支えるようにして背中に手を当てている須崎。
無事であったことに安堵しつつも、文太はなんとなく、その輪の中に入っていくことができなかった。
「匠、ありがとな。どこで合流できた?」
「錆尾根の取付らへん。この天気のなか、あの岩場を下降するって言って聞かないから、力尽くで連れて帰ってきた」
「とにかくよかった。怪我は?」
「ああ、そのときに軽い落石があって頬にかすり傷あるけど、それ以外は大丈夫」
梓の状況について話しているのに、岳と須崎、言葉を交わすのはそのふたりばかりで、当の本人は黙ったままだ。
しかし、今のふたりの慣れた態度から察するに、こういったシチュエーションには何度か出くわしているのだろう。
それに比べて、おそらく初見であろう奈良と楠本には、明らかな動揺が見られた。
「とにかく入りなよ。匠も疲れてるだろ」
「ああ。ちょっと従業員部屋借りる。お前らも仕事あるだろ? あとは任せてくれていいから」
「うん。じゃあこれ使って」
須崎が岳から救急箱を受け取ったのを合図に、彼らを囲んでいた人の輪が消え、文太はそこでやっと、梓をしっかりと捉えることができた。
彼の目は、いつぞやのように漆黒に染まり、温度が感じられなかった。
ふと、梓が視線を上げる。
「あ……」
名を呼ぼうとしたが、うまく声が出ない。
目が合っても、彼のそれに温度がもたらされることはなかった。
なんで?
いったいどうして————
彼に対する問いかけは、膨らみかけはするものの、虚しく萎んでいく。
今の自分には、固く閉ざされた梓の、その輪郭にふれることすらできない。
一度身を投じたプールの深さを、文太は身をもって知るのだった。
最初のコメントを投稿しよう!