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屋根を叩いていた雨の音が、いつのまにか消えている。
どうやら雷は遠ざかったようだ。
すで予定時刻を過ぎてしまっているし、暗くなるまでに到着しないとさすがに心配されるだろう。
文太は、腕にもたれたまま動かない男を見た。
よく眠っている。
彼とは脈絡のない会話をいくつか交わしただけなのに、なぜか離れ難い心地がするのだった。
体をそっと離すと、文太は小屋を後にした。
鈍色の空のなかを、これまた鈍色の雲が、めまぐるしい勢いで流れていく。
バックパックのチェストベルトをきつめに締め直すと、ガレ場の稜線を歩き出した。
風が頰を打つ。
耳裏に引っかかったフードがペラペラと音を立て、集中力を削いだ。
削がれた隙間を埋めるようにして生じた雑念は、疑惑を確信へと導いたのである。
あの男を知っている。
彼とは幼い頃に一度、会ったことがある。
ほろほろと崩れていた記憶は、彼との予期せぬ再会によって統合された。
そこに少しでも甘みがあったならば、最初から崩れはしなかっただろう。
彼との間にあるのは、苦く、痛いばかりの記憶だった。
瞬間、山が唸り声をあげ、文太は記憶の沼から這い上がった。
雷鳴ではなく、風の轟きだった。
フードを被り直すと、雑念を振り払うように、足早に進んだ。
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