15. 深淵

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「アズにはみんなついてるよ。晋太郎さんだって、下でいつも気にかけてる。幸せになってほしいって、ずっと思ってんだよ。お前はそれをどうでもいいっていうの?」 梓はなにも言わない。 やがて須崎は梓の肩に顎を置き、それから顔を覗き込んだ。 間もなくして、ふたりの唇が重なる。 短いキスの後、須崎はふたたび梓の肩に額を乗せて、強く抱きしめた。 「俺のために生きててほしいって言ったら、だめ?」 懇願するような、須崎のか細い声。 自信に満ちた普段の口調とはあまりにかけ離れていた。 「俺は、もう……」 おそらく梓は、昨日文太に言ったのと同じことを言おうとしたに違いない。 しかし、須崎はその定型のひと言を封じるように、言葉を被せた。 「言ったら困らせると思って、今まで黙ってたけど——俺はアズと生きていきたいと思ってる。必要とされたいし、困ったら一番に頼ってほしい」 「匠……」 「ずっと好きだった」 梓はなにも言わない。ただ、しばらくして、彼の鼻を啜る音が響いてきた。 文太は布団を持ったまま、そっと踵を返した。 そのまま乾燥室へと入ると、布団を鼻に押しつけて、呼吸の乱れが声にならないよう努める。 ——ひどく打ちのめされた気分だった。 それは決して、敗北感ばかりではない。 なんとも表しようのない思いだった。 梓は、文太が到底手の届かないような深淵にいる。 そして須崎は、そこに潔く身を投じるつもりでいるのだ。 それに対して自分はどうなのか。 浅はかで、あまりにも未熟な————— 鼻先をかすめる羞恥を布団のカバーで拭いながら、文太はその場にしばらく留まっていた。
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