15. 深淵

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「お前、いつ山下りんの」 「あと10日もしないうちに……」 気づけば、長い夏休みももう終わろうとしていた。 予定通り、近いうちに間宮が上がってくるから、文太は交代する形で下山することになっている。 「あーあ、早く10日経てばいいのに」 独り言めいた嫌味が右耳から滑り込んできて、文太は須崎のほうに体を向けた。 「言っときますけど、俺も梓さんのこと諦めるつもりはありませんからね」 「はあ?」 「そりゃ、須崎さんには敵わないってわかってます。今日みたいに梓さんが無茶な行動取っても、俺には助けることもできないし。とても対等な関係にはなれないなって——無力さを痛感してもいます」 「じゃあ諦めろよ」 「人に言われて自分の気持ちを変えることはできません。もちろん須崎さんの気持ちもわかってます。でも、俺だって好きだから……」 須崎は額に当てていた手を離し、天井に向かって舌打ちをした。 「くだらないことぶちぶち言ってると犯すぞ」 それから、こちらに背を向けてしまう。 彼に取り合う気がないとわかってはいたが、文太はそれでも、この機会を逃したくはなかった。 「それに——梓さんだっていずれ、東京に帰ってくる。山では須崎さんに太刀打ちできないけど、街でなら……俺にもチャンスがあるはずです」 それは、須崎が県内在住だということを把握した上で発した、文太なりの宣戦布告だった。 須崎は苛立ちを滲ませながら振り返ったが、すぐにまた布団に潜り込んでしまう。 煽りに乗るまいと、踏みとどまったのだろう。 「なに、同じ都内に住んでるから有利だっていいたいの? アズがお前に連絡先とか住所を教えると思っちゃってるわけだ」 「え、教えて……くれないんですか?」 「期待するだけ無駄だよ。今まで関係してきた奴らにも、一切教えなかったもん。連絡先知ってんの、俺と岳ぐらいじゃないかな」 うっすらと予感はしていたが、それでも落胆は隠せない。 須崎の愉快そうな様子が、その背中に滲み出ていた。
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