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「俺にも兄がいてね。ふたつ上で、稜っていう名前だった」
そして、ゆっくりと話し始める。
俺にもということは、岳は文太の兄——つまり未来の存在を知っているのだろう。
彼のいう親近感の意味も、その出だしだけでなんとなく察することができたのだった。
「兄は小さい時から父親に連れられてあちこち山登ったり、小屋入ったりしてて、親の仕事をよく見てた。ここの後継ぎ候補だったんだ」
「そうだったんですか……」
すべてを過去形で話すその口調だけで、彼にも悲しい出来事があったのだとわかる。
「6年前ぐらいかな……登山中に落石に遭って死んじゃって。それで急遽、俺が継ぐことになった。兄と比べて弟の俺は全然期待されてなかったし、俺自身も、東京の大学出て、そのままサラリーマンしてたから、地元には帰らないつもりだったんだけど——ほんとにさ、人生なにがあるかわからないよね」
そう言って、ため息混じりの笑みをこぼした。
岳が東京でなにを学び、どんな仕事をしていたのかまではわからないが、めまぐるしい環境変化に、戸惑いと葛藤があったのは事実だろう。
「兄と違って俺は昔から体が弱かったから、それまでほとんど山にも登ったことがなかったし、親の仕事内容を把握してるわけじゃなかった。会社辞めてこっち来て、しばらくは小屋で修行してたんだけど——すぐにしんどくなっちゃってね」
「それは、体力的なこととか、環境の変化で?」
「一番はメンタルかな。とにかく俺、山に関しては全くの無知だったから、従業員にさ、舐められるんだよね。山のこと全く知らないのに、こんな奴が後継なのかよって。やっぱり、父親の落胆もすごいし……。みんなが『死んだのがお前だったら』って思ってる気がしてきちゃって、居場所がないっていうかさ」
不思議だった。
山小屋というこの特殊な労働環境のなかでも、文太は大きな不満を抱いたことはなかった。
それは岳の管理や気配りが行き届いているからだ。ほかのメンバーが長いこと入れ替わらないのも、彼への信頼が厚いからなのだろう。
常に冷静で頭の回転が速い彼が、少しの間でもそんな感情を抱いていただなんて、信じられなかった。
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