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小屋の匂いに梓の気配がのっかって、意識して平静を保とうとしても息苦しくなる。
文太は足を伸ばし、自身のつま先を梓の足の親指にぶつけた。
「梓さんが好きです……」
彼が目を伏せたのが、気配だけでわかった。
文太はなるべく彼を追い詰めないよう、ぶつけたつま先をそっと離した。
「自覚はあります。俺、梓さんの足を引っ張ってばっかだし、まだ全然ダメだって。それに、恋人とはちょっと違うかもしれないけど、今は須崎さんが、梓さんの一番近くにいるんだなっていうのもわかる」
梓はなにも答えない。
床に転がったままの彼の手を、握りたい衝動に駆られた。
「兄には勝てないし、須崎さんとも対等にはなれない——でもね、俺は俺なりのやり方で、梓さんをいい方向に導きたいんです」
「やり方ってなんだよ」
梓が唐突に顔を上げた時、文太は拍子抜けして目を瞬かせた。
まさかここで問いかけられるとは思っていなかったのだ。
「それはまだ……よくわかりませんけど!」
「わかんないのかよ」
梓は床に向かって吹き出し、それから柱にふたたびもたれかかった。
窓枠が時折、風で揺れる。
それ以外はなにもない。
この小屋には、梓以外になにもなかった。
「なんで、誰も俺を放っておいてくれないのかな……」
本音なのか、それとも虚勢なのか。
吐息を震わせながら発した、その小さな声からは読み取れなかった。
「放っておかないですよ……放っておけるわけないじゃないですか」
「未来——お前の兄ちゃんを殺した奴なのに?」
「何言ってるの。山は自己責任だって、俺も親も、みんなそう思って……」
「あの時、俺がちゃんと止めてれば未来は滑落しなかった。気をつけていれば、死ぬような山行じゃなかった。絶対に守れたんだ。なのに俺は……」
「梓さん、違うよ!」
たまらず肩を引き寄せた。
腕をさすっても、頭を撫でても、彼の体は強張るばかりだ。
やがて、首を左右に振りながら俯いてしまう。
今の彼には、文太の選ぶありきたりな言葉など、何の慰めにもならなかった。
「いつもならあんなことにはならなかった。俺らのバランスはずっと安定してた。それを欠く原因をつくったのは俺だ」
「なんでそう思うの」
「俺が未来への気持ちを、抑えきれなくなったから……」
文太は固くまぶたを閉じた。
漠然とではあるが、でも強く、今の彼を見てはいけないという気がしたのだった。
それから、ぽつりぽつりと落とされる梓の告白に、耳を傾けていた。
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