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——翌日は天候が荒れ、一日停滞した。
雨が、テントが、ふたりを外の世界から隔絶した。
少し動けば互いの体が触れるほどの距離で、気を紛らわせるような娯楽もない。
言葉少なにテントの中で過ごした1日は、息苦しさを感じながらも、なぜか幸福だったという。
未来が呼吸をしている。その胸が穏やかに上下し、微かな寝息を立てている。
彼の気配を感じられることの喜びが、そこにあった。
そしてそれは、たぶん未来も同じだったのだろう。
あの抱擁で、彼が同様の感情を抱いているであろうことを、梓は悟ったのだという。
それは決して、生還した後の興奮が尾を引いているばかりではない。
息苦しさと熱情がひしめき合うテントの中で、ふたりはかつて感じたことのない居心地のわるさを覚えながら、一晩を過ごしたのだった。
——それから下山するまでに交わした言葉は少なかったらしい。
旅が終わりに近づくにつれて、新たな始まりが訪れる——その静かな予兆を感じ取りながら、梓は戸惑いに揺れていた。
最後の山、折ヶ岳のピークに立ったのは、まだ朝日の登らない早朝のことだった。
それまでずっと先行していた未来が登頂直前で立ち止まり、梓に「先に行けよ」と言ったという。
新ルートを開拓したわけでも、未踏峰の第一登になったわけでもない。
梓は別にいいと言ったが、彼はまだ足を止めたままでいた。
じゃあ一緒に行こう————
すると未来は、梓の左手を取って先に歩き出した。もちろん、手を繋ぐのはこれが初めてのことだったらしい。
彼は山頂直前で足並みを揃えると、一歩を踏み出し「完登ー!」と小さく叫んだ。
梓は、いくつもの山を越えて最後のピークに達した感動よりも、握られたままの指先ばかりが気になって、言葉が出なかったという。
山頂で、未来は梓に対し、いくつか感謝の気持ちを述べた。
生きて達成できてよかったとか、梓と一緒に制覇できてよかったとか、そういった内容だったらしいが——細かくは覚えていないらしい。
梓はただそれに短い相槌を打ち、雲海の向こうから朝日が登るのを、じっと待っていた。
やがてふたりの頬や額、瞳までがすっかりと赤く染められた時——梓は繋がれたままの手を、軽く握り返した。
未来がこちらを向く。
真っ赤な光のシャワーがふと遮られて、柔らかな感触が唇に当たる。それが未来からもらった、初めてのキスだった。
彼が差し出してきた右手、それを掴んだ自身の左手の温もりは、梓の人生の中で——なによりも特別なものになった。
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