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「来てすぐは、なかなか山の時間に慣れないよね」
文太があくびを噛み殺す姿を見て、昨晩の状況を察したらしい。
楠本陽紀は、ふっくらとした頬を盛り上げながら笑った。
まだ夏も始まったばかりだというのに彼はすっかり日焼けをしていて、地の色がかろうじてわかるのは、腕の関節の内側、屈んだ時にTシャツからのぞく背中ぐらいだった。
「すいません。普段は夜型なんで……」
「まあ、今が寝不足の状態なら今晩は早寝できるだろうし、それで少しリズムができるよ。小屋入りの日は俺もそうだもん。初日はほぼ徹夜」
彼の高い声が、鈍重になった頭に反響する。文太は相槌代わりに笑みを繕ってやり過ごした。
——ヒュッテ霜月に到着した昨夜、旅の疲れはあったものの、頭が妙に冴えてしまってろくに眠れなかった。
従業員部屋は個室だと聞いていたが、イメージしていたものとはだいぶ違っていて、それも不眠の原因のひとつだろう。
八畳間の一畳とちょっとを、個別にカーテンで仕切ってあるだけの、いわゆるネットカフェのような空間で、壁で仕切られているわけではなかった。
最低限のプライベートはかろうじて守られるものの、自身に与えられたスペースは布団を敷いただけで余白がなくなったし、いびきや寝返りの音は筒抜けだ。
そう易々と眠りにはつけるはずもなかった。
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