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しかし梓はもう、彼を宥めなかったらしい。
度重なる諍いに疲れてしまっていたし、今更、彼への想いを口に出すまでもないという驕りもあった。
自惚れもあったのかもしれない。
所詮、彼には自分しかいない。どうせ自分から離れることはないと————
もしあの時、彼にきちんと伝えていたら違ったのだろうか。
自分にとっても、未来はかけがえのない存在だ。
お前がいなくてはだめだ、離れるなと。
しかし、実際はそうしなかった。
「じゃあ好きにすればいい」と言い放って、シュラフに潜り込み、彼を見捨てた。
背を向けてはいたが、未来も大人しく横になった気配を察知すると——梓は少しだけ眠ったという。
梓の記憶が途絶えたのは、ほんのごくわずかな時間だった。
目を覚ますと、左側にはすっかり冷たくなった空のシュラフだけがあった。
空がすでに白み始め、少しだけ風が弱くなっている。
その時、梓は察したらしい。
彼は自己判断で、ひとりでピークへと向かったのだろう。
登頂したらこの場所に戻ってくるつもりらしく、小屋にはいくつかの荷物が残されたままだった。
梓は小屋から出て、蜜ヶ岳方面へと続く彼の踏み跡を辿ったが、歩くうちにまた風が強くなり、あっという間に巻かれた。
一縷の望みを託して小屋へと戻るが、やはり未来は戻ってきてはいなかった。
白い嵐がトレースを消していく。
希望を少しずつ打ち砕かれていくような、淡々と迫り来る絶望に、時に叫びだしそうになりながらも、梓は待ったという。
今にもからからと、いつぞやのように笑い出すんじゃないか。
死ぬかと思ったとおどけながら、扉を開けて入ってくる彼の幻を——短いまどろみの合間に見た。
しかし、未来は戻ってこなかった。
春先の魔窟は、未来を根こそぎのみ込んでしまったのだった。
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