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「それが、今日にかぎってどっか行ってるみたいで……」
朝、忙しくなる前に梓の元へと行ったのだが、彼の気配はテントごと消えていた。
天気がいいから、延び延びになっていた無涸沢付近の捜索に出かけたのかもしれない。
でも、自分が発つ朝ぐらい、いてくれたってバチは当たらないのにとは思う。
おひつを各テーブルに置いて戻ると、楠本は天井を見上げた。
配膳を終えた瞬間、食堂には続々と客が入ってくる。
「あーあ、ブンちゃんが勝つ方に1万円賭けてたのになぁ……」
「賭けるって誰と?」
「岳と」
瞬間、楠本の側頭部に拳がのびてきて、こめかみを小突く。
いつのまにか、楠本の背後に岳が立っていた。
「賭けてない。陽紀が勝手に言い出しただけだろ。あと俺のこと呼び捨てにするな」
「はいはいすいませんでした。岳どん」
「どんもだめ」
突っ込まれた陽紀は嬉しそうだ。
普段、くだらないネタの9割を無視されているからだろう。
「えー、でもさー、ずるくない? 長い付き合いだし、岳より俺のが年上なのにさぁ」
「一応支配人だし、そこはけじめつけないと。嫌なら俺も陽紀さんって呼ぼうか?」
「やだ。鳥肌立ちそう」
笑い合うふたりの声を聞いて、文太はふと気づいた。
岳はたしか30半ばのはずだ。
陽紀は今はっきりと、自分のほうが年上といった。
「え、待って。陽紀さんって年いくつなんですか? 俺ずっと自分と同じぐらいかと……」
驚く文太を見て、岳が下唇を噛んで笑いを堪えているのがわかった。
陽紀は言われ慣れているのか、面倒とばかりに首を傾けた。それから人差し指を立てて、わざとらしく頬にあてる。
「2ちゃい」
文太はため息を吐き、彼の思う壺にはまってしまったことを自覚した。
気づけばもうほとんどの客は席に着いている。
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