558人が本棚に入れています
本棚に追加
「ブン、奥で先にごはん食べちゃいな。もう仕事は大丈夫だから、準備して早く出ないと」
岳は背中に手を当ててくると、急かすように軽く押した。
「え、でも俺……」
今日は天気ももつはずだから、宿泊者のチェックアウトが落ち着くまではいるつもりだった。
みんなにきちんと挨拶をしたかったし、それにまだ梓にも会えていない。
「いいから。早く行け」
しかし、岳の半ば命令じみた口調に圧されて、頷くしかなかった。
結局、客の出入りがまだ慌ただしい時間帯に、なんとか3人に見送られながら、文太は小屋を後にしたのだった。
だから帰り際、目に留まったホワイトボードの行き先の欄に「東京」と、さらに戻り時間には「来年また必ず来ます」と、こっそり記しておいた。
みんなはいつ気づくだろうか————
騒々しい中での別れだったので、感傷に浸る間もなかった。
たっぷりと蓄えていた涙は奥底に引っ込んでしまい、なんだか拍子抜けしてしまう。
湿っぽくなるよりはよかったのだろうか。
梓も、しんみりした別れはきっと苦手なのだろう。姿を消したのはきっと、彼なりの思いがあってのことなのだ。
下りは約6時間。
この時間に出れば、今日中に東京まで帰れるかもしれない。
文太は、チェストハーネスを調整し直してから一度小屋を振り返り、ふたたび歩き出した。
空はどこまでも青く広がり、稜線の向こうへと続いている。
時折、強い風が巨人の手に変貌し、文太の全身を撫で付けていった。
最初のコメントを投稿しよう!