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行きは重くて仕方のなかったバックパックも、今ではそこまで負担じゃない。
歩くスピードも足の置き方も、初心者のそれではなくなってきた。
頬を照りつける陽の熱さと、体を打つ空気の冷たさ。そのアンバランスさが煩わしいような、名残惜しいような、妙な気持ちだ。
しばらくすると、如月避難小屋が見えてきた。
「あれ?」
文太は一度立ち止まり、目を瞬かせた。
それから早歩きで小屋に近づく。
黒くて大きなバックパックを背負った登山者のシルエットに、見覚えがあったからだ。
「梓さん!?」
バックパックの揺れる音で、こちらの気配には気づいていただろう。
呼び止めると彼はもったいぶるようにゆっくりと振り返った。
「遅い」
「え、なんでいるの?」
「俺も下りるから」
文太は咄嗟に言葉が出てこず、しばらく唇だけを動かした。
ようやく引っ張り出した第一声は、笑えるぐらいに裏返っていた。
「だって、須崎さんと下りるって……」
「気が変わった。別に約束してたわけじゃないし。一応、朝イチで神無月小屋に寄って挨拶だけしてきた」
「だから朝からいなかったんですか? 俺、てっきりどっかに行ったのかと……」
「如月避難小屋で待ってるって岳に伝えておいたけど、聞いてない?」
文太はぽかんと、小屋の軒先を見上げた。
だから岳はあんなに急かしていたのか。
それに別れ際の、楠本のあの薄笑い。おそらく岳から事情を聞いたに違いない。
「ほら、行くぞ」
惚けていると、梓が先に一歩踏み出した。
「はい!」
文太は浮き立つ思いを抑えつけるように、地面を踏み締めた。
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