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渋滞でもしてくれないだろうか。
ペースよく進んでいくのがこんなに恨めしいと思った日はない。
サイドミラーにふと目をやると、自分の表情には明らかな焦りが浮かんでいて、滑稽だった。
文太はそのまま窓に寄りかかり、頬杖をついて運転席に座る梓を見た。
表情はずっと真顔のまま変わらないが、目を瞬かせる回数が多くなってきた気がする。
長時間の運転で、さすがに疲労しているのだろう。
「梓さん、休憩しますか?」
「さっきしただろ」
「でももう1時間以上経ちますし。あ、次のサービスエリアで売ってる玉こんにゃく食べましょうよ、おいしいから」
「いい。帰るの遅くなるし」
梓は前を向いたまま、眉間を軽く揉んだ。
——梓は自家用車で来ていて、宇田川登山口のすぐそばに車を駐めていた。
なんでもヒュッテ霜月の従業員用に借りているスペースらしく、ほかにも2台駐まっていた。
ついでだから乗っていけば——そう言われて、期待しなかったといえば嘘になる。
彼と一緒に下山できただけでも信じられないのに、東京に着くまでの長い時間、ふたりきりでいられるのだ。
だから文太はなんとかそれを引き延ばそうと、昼食に誘ったり、パーキングエリアに寄ってくれと頼んだ。
きっかけさえあればそのうち、彼の連絡先や次に会う約束を取り付けられるかもしれないという、淡い思いもあった。
しかし彼はいつも通り素っ気ない返事をするばかりで、隙は見せてくれなかった。
やんわりとアプローチをかけるものの、あっさりとかわされる。
無意味なやりとりを繰り返すうち、車はそろそろ都内に入ろうとしていた。
「新宿でよかったよな」
ここまでくると、さすがに車が詰まってきた。
文太は少しホッとして、梓からの質問を遮った。
「……梓さん、なんで一緒に下りてくれたんですか」
「深い意味はない。仕事もあるし」
「深くはなくても、多少の意味はあるってことですか」
幸い、前は渋滞しているし、道はまだ真っ直ぐに続いている。
少しならば———
文太はハンドルに添えられている梓の左手を、手のひらでやんわりと包み込んだ。
「ごめんない。帰る前は——来年、また山で会えるまで頑張ろうって思ってたんですけど、梓さんが一緒に下りてくれたから……やっぱり欲が出てきちゃいました」
梓はなにも言わない。
拒絶でも許容でもない、どちらかというと虚脱感に近い無反応だった。
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