19. 往生際

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「連絡先、教えてくれませんか」 「必要ないから」 粘るつもりでいたのに、吐き捨てるように言い返されてしまい、文太は怯んでしまった。 車はまだ、進む気配がない。 梓に重ねた手のひらが、じっとりと汗ばんできた。 「もし、梓さんが兄に対して——自分が幸せになるのが申し訳ないって思ってるなら……」 兄という言葉を口にした瞬間、梓がこちらを向いた。 「なにか勘違いしてない? 俺はお前と幸せになるつもりも、お前に幸せにしてもらうつもりもない」 「違う、そうじゃなくて……」 一応、否定しかけたが、無意味だった。こちらの思惑など、とうに見透かされている。 慎重に言葉選びをしているうちに、妙な間が生まれてしまった。 「幸せにしてあげるなんて、そんな厚かましいこと思ってません。誰といつ幸せになるかは、梓さんが決めることですから」 「じゃあ……」 「でも、梓さんが決めた時、隣にいるのが俺だったらいいなって思ってます。だからそのときまで、そばで待ちたいんです」 って言ったら、迷惑ですか…… 彼の鋭い視線に圧されて、語尾は尻切れトンボになってしまった。 前の車が、順次動き出す。梓はゆるくアクセルを踏み、前進させた。 重ねた手のひらは、意外にも振り払われなかった。 梓の顔を盗み見るが、先ほどの怒りは消失している。 きっと呆れているのだ。 手を振り解かれないのも、単に気力を失っているだけなのだろう。 「ね、やっぱり高速下りたら休憩しませんか? お茶とか……さすがにもう温泉はないけど、なんならスパ銭寄ってもいいし!」 明るく切り返してはみたものの、期待しているわけではなかった。あくまで雰囲気を変えようとしただけだ。 だから、梓が前を向いたまま、ごくわずかに頷いた時——文太にはまだ、実感がわかなかった。 「……そうだな。風呂も入りたいし」 一言落とされてようやく、彼が誘いに応じたのだと気づく。 車がふたたび流れ出し、梓がアクセルを深く踏んだのがわかった。
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