21. 小さな箱

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日常に溶け込むのは早かった。 抽出したてのコーヒーにミルクを落としたように、研ぎ澄まされていた感覚はまろやかに鈍り、利便性という甘みはいとも簡単に体に馴染んだ。 夏休みが明けても日差しが和らぐ気配はない。 照り返しの強いアスファルトに立ち、スニーカーの分厚いソールごとじわじわと溶かされていくような暑さに晒されていると、山の上でダウンジャケットを着ていたのがもう遠い昔のことのように思えた。 唯一、冴えたままでいるのは梓のことだけだ。 全てが鈍重になっていくなか、逆に彼の存在感だけが際立ち、神経を撫で回していた。 ——梓と別れてから、文太は彼の名前で検索をかけてみた。 どこかの大学教授だとか、地域新聞で取り上げられた学生だとか、雑多な佐野梓の中から、求めている佐野梓を抽出するのに、大して時間はかからなかった。 どうやらSNSはやっていないらしく、アカウントは見当たらなかったが、仕事用のウェブサイトは見つけることができた。 プロフィールにはフォトグラファーという肩書きで彼の名前と略歴が記載されているだけで、顔写真はなかった。 掲載されている写真の多くは雑貨や衣類などのカタログに用いるような、仕事の実績と思われる写真だったが、いくつかは作品として撮影されたものもあった。 その中に東アルプスで撮られた朝日や花の群落などがあり——それで文太は梓本人だという確信を得たのだった。 彼と繋がる手段は、スタジオ兼オフィスの住所を辿って直接会いに行くか、問い合わせフォームからメールを送るかのどちらかだった。 文太はまず半日かけて、メッセージフォームを睨んだまま、送る内容を必死に考えた。 熟考の末、タイトルに「会いたいです」と打ち、本文には、連絡を待っている旨と、名前を書いて送信した。 それがもう2週間も前のことで、彼からは未だに梨の礫だった。 文太は、別れる直前の彼の表情、最後に発した言葉を思い出し、自分がなにか粗相をしていないかを振り返ってみた。
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