21. 小さな箱

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——あの日、梓は文太の自宅まで送り届けてくれた。 口数は少なかったが、別れ際に顔を寄せると抵抗もせずにキスを受け取ってくれ、ずいぶんと長い抱擁にも応じてくれた。 その気もないのに、適当な態度で場を乗り切るような調子の良さは、彼にはないだろう。 つまり、梓もこちらの気持ちに対して、少なからず前向きであることを——文太は期待していたのだ。 もう一度、同様のメールを送ってみたが、やはり反応はなかった。 住所を頼りに梓のスタジオを訪ねたのは、それから1週間後のこと。午後の講義が休講になり、予定がぽっかりあいた時だった。 梓のオフィスは、大学から電車を乗り継いで30分、飲食店が立ち並ぶ賑やかな通りのワンブロック先にある、住宅地の一角にあった。 入り口には、カフェなどによくあるメニューボードにLittle Boxと記されているだけだが、住所はここで合っていそうだ。 重厚なドアはぴったりと閉められていて、窓も見当たらない。 名の通り、ただただ四角い、箱のような建物だった。 この中に、梓がいるのだろうか。 ぐるりと周囲を一周してみたが、建物はあまりにも無味無臭で、手がかりは掴めなかった。 近くの電柱に寄りかかり、入り口付近を見つめながら途方に暮れていると、やがて男性の二人組が建物から出てきた。 梓ではない。 ふたりともTシャツ姿というラフな装いで、入り口からやや距離を取ると、横並びでタバコを吸い始めた。 あと何カットだっけなどと話しているから、中で撮影が行われていることはわかった。 ふたりが戻ってからも、宅配業者や関係者らしき人々がしきりに出入りしており、慌ただしかった。 これだけ出入りが頻発であれば、ドアを開けて中を覗くぐらいはできそうだ。 実際、文太がドアを開けても、誰もこちらを向かなかった。 入り口付近には段ボールが積まれていたし、フラッシュや雑音などで騒々しいため、いちいち目に入らないのかもしれない。
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