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「正直、すげー嫌でした……」
しかし、現実を目の当たりにするとだめだった。
彼を独占したあの一夜がなければ、まだ踏ん張れたのだろうか。
彼にうんざりされるとわかっていながらも、昂った感情が抑えられない。
文太は両手を下まぶたに当てて、溢れてくる涙を堰き止めようとした。
「悪かった」
しかし、梓は遠ざかりはしなかった。
口から出たのはごくシンプルな謝罪だったが、彼なりの誠意がたしかな重みとなって乗っかっているのがわかった。
梓は言おうとしてためらい、一度息を吸ったのち、再開した。
「事実だから言うけど——今までは本当に、誰とも何もなかった。そんなつもりもなかったし」
「じゃあ、今日になって気が変わったってこと?」
梓にはまだいくらかの躊躇が見られた。
それが文太の言う、かっこ悪い言い訳に当てはまるからだろう。
文太は彼の腰を掴んで軽く引き寄せた。
通行人の視線はもう目に入らない。気になるのは梓の真意だけだった。
「変わったっていうか、なんかもうかわすのが面倒で……無抵抗でいたら、ああなってた」
「面倒くさいからって許したの?」
「1カ月経ったし、文太はもう来ないんだろうなって思ったら——なんかどうでもよくなったんだよ」
よくわからない理屈だと思いながらも、文太は内心、充分だった。
不安で冷え固まっていた体の一部が梓によって解され、血が巡っていく。
のぼせるほどではない。
温くて、離れたそばから冷たく感じてしまうぐらいの、彼から与えられる熱量を今——文太だけが注がれているのだ。
「行こう」
「スタジオに戻るんですか?」
文太はふと不安になった。
志村をひとり残して出てきてしまっているから、鉢合わせる可能性がある。
それに、情事の残り香のするあの空間に身を置いたら、この幸福感はたちまちかき消えてしまうだろう。
「戻らないよ」
梓は言うと、文太の頬にふれて、拭いそびれていた涙の一筋を消した。
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