23. はじめてといちばん

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梓はスタジオを素通りしてそのまま駅に向かった。 どこに行くのか問うと、あっさりと「家」という答えが返ってくる。 連絡先を教えるのすら渋っていたくせに、自宅に招くのは抵抗がないのだろうか。 それとも、もうそれだけ気を許されたということか———— 道中では、あのスタジオのことについても尋ねてみた。 あそこはいわゆるシェアオフィスのようなもので、同じ写真事務所から独立したスタッフが共同で借りているらしい。 スタジオの奥にもうひとつ作業部屋があり、そこにほかのスタッフがいるから、戸締りなどは心配しなくていいそうだ。 今日は撮影がなかったから機材も持ち込んでないし、そのまま帰っても問題ないと、彼は言った。 置いてきた志村のことは、特になにも言わなかった。 ——梓の住まいは、スタジオから二駅ほど離れた場所にある、広めのワンルームだった。 ベッドに寄りかかるかたちでフローリングに腰を下ろし、ぐるりと見回してみる。 生活用品は必要最低限だが、登山用品と撮影機材が多い。 料理はしないのか、キッチンまわりだけがやたらとすっきりしていた。 ふたくちコンロの上には、ケトルがひとつだけ。 彼はコーヒーをふたつ持ってくると、隣に座ってきた。 ひとつは陶器のマグカップ、もうひとつは山でも使っていたチタン製のものだった。 「あ、ありがとうございます」 彼は文太に陶器のマグを差し出してくれた。 「インスタントって、下界で飲むと途端にまずく感じるな」 「そんなことは……」 コーヒーの種類や淹れ方など、今の文太にとってはどうだってよかった。 どうせ、緊張で味なんてろくにわかりやしない。 冷房の効きがいいので、指先を温められればそれでよかった。 「来客用にドリップぐらい用意しておくべきだよな」 「……お客さん、よく来るんですか」 「いや、この部屋に呼んだのはお前がはじめて」 指先が熱くなってきて、コーヒーの注がれていない縁付近にスライドさせた。
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