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「このテント、なんですか?」
「梓さんの寝床」
「梓さん?」
「美人だよ」
いや、聞いたのはそういうことではないのだが。
それでも内心、予想外の収穫が淡い期待へと昇華し、薄く積もったことは否めなかった。
——楠本の話によると、梓さんは従業員ではないものの、昔から小屋に出入りする常連以上、スタッフ未満という立ち位置の人物らしい。
かつて小屋のスタッフとして働いていたこともあるらしいが、今は東京でスタジオカメラマンをしながら生計を立てていて、毎年、夏のひと時だけ山にやってきては自分の作品を撮っているらしいのだ。
また、撮影の合間に小屋の手伝いもしてくれるらしい。
今回のヘリの荷受けで間宮があけた穴を、急遽埋めてくれたのも梓さんだという。
「梓さんは、色々手伝ってくれてるのに、小屋で寝ないんですか?」
幕営が禁止の小屋付近に堂々と張られているテントを見ながら文太は言った。
「んー、まあね。自由にやりたいんじゃない。それに、煩わしいんだと思うよ。過去に梓さん巡って色々あったらしいからね」
「色々って?」
「ほら、男ばっかじゃん、うちのスタッフ。だからまあその……、梓さんが入ったら変な感じになっちゃったらしいよ。小屋全体が」
濁されたその先は、容易に想像がつく。
娯楽などない山の上で、男ばかりのなかに美人が紛れ込めば、風紀が乱れるのは自然なことだろう。
文太は屈んで、テントの前室部分を覗き込んでみた。
靴が見当たらないから、どうやら今は不在らしい。
それを確認するとようやくほっとして、声のボリュームを上げた。
「そんなに綺麗なんですか、その人」
「なに梶川君、気になんの?」
「え! そんなこと言われたら気になるじゃないですか、普通は」
文太の周りにいる美人は皆、しきりに前髪を気にして、自撮りと加工に精を出すタイプばかりだ。
山の中を、テント——それもソロ用じゃなくて2〜3人用のテントとカメラの機材を担いでくる美人だなんて、たくましすぎて想像もつかなかった。
「梓さんねー。常にそこらへんうろうろしてるから、案外もう会ってるかもよ」
「いや、確実にないですね。まず女性に会ってないですもん」
テントを見つめたまま、文太はまだ始まったばかりのここでの生活を振り返った。
登山口から登り始めて、道中は誰とも出会わなかった。
唯一、スタッフのほかに言葉を交わしたのはあの避難小屋で————
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