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「なんか用?」
低い声が、後頭部を打ち付けるように響いた時、文太は状況がよく理解できなかった。
しゃがみ込んだままでいると、背後から影が伸びてきて、テントに濃い染みをつくる。
振り返って、その影の正体を確かめるなり、よろけて尻餅をついてしまった。
驚いたのは自分だけではない。相手もまた、同じように目を見開き、瞬きすら忘れているようだった。
袈裟がけにした大振りのカメラが、腰で揺れている。
チャコールグレーのジャケットも、細身のパンツにプリントされたロゴも、見覚えがある。
それらが肌にふれる感触も、もちろん。
——目の前にいるのは、紛れもなく昨日、避難小屋で鉢合わせた男だった。
「あ……」
こちらを捉えた彼の唇が震えながら、微かに動く。
彼が「み」と発音したのがはっきりとわかると、文太は思わず立ち上がった。
避難小屋で隣に座った時は小柄に感じたが、どうやら顔が小さかっただけらしい。
男は文太と同じぐらいの背丈だった。
「あの、すみません! 昨日は……」
「どけ」
男が唇を前歯でぎりぎりと噛み締めたのも一瞬で、すぐ無表情になってしまった。
そして、単調に言い放つ。
「え?」
「そこ、俺のテント。前に突っ立っていられると邪魔なんだけど」
その時、いつのまにか一歩引いて見守っていたらしい楠本と目が合った。
テントと男、こちらが目線を交互に配る姿を見て、肩を震わせている。
痺れを切らしたらしい男は、文太を腕で押しのけるようにして、身を屈めた。
入り口のファスナーが開き、男が室内に潜り込むタイミングでテントが揺れる。ヒュッテ霜月という札が、風にはためき、こちらを揶揄うように音を立てた。
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