2. ヒュッテ霜月へようこそ

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文太は無造作に脱ぎ捨てられたその登山靴を、目を瞬かせながら見つめたのち、壁に寄りかかって笑っている楠本のほうへと歩み寄った。 息を吸った際に膨らんだ興奮が言葉になって溢れないよう、どうにか小刻みに息を吐くと、声のボリュームを落とした。 「ちょっと! 騙さないでくださいよ!」 「俺、梓さんが女の子だなんて一度も言ってないよ」 「でも、美人っていうから……」 「嘘ついてないでしょー?」 造作の美醜でいうならば、彼の意見は真っ当だ。しかし———— 文太は乾いた上唇を舐めて、先ほどぶつかってきた梓の目を思い出してみた。 一重瞼に覆われた、形の良い大きな目。 その先ほどの鋭い視線と、昨日の小屋で見せた表情が、どうもリンクしない。 今の梓からは、たしかに憤りのようなものを感じた。 昨日、如月避難小屋に置き去りにし、翌日には赤いジャケットを脱ぎ捨ててに生まれ変わった文太を見て。 淡い、束の間の白昼夢を破ってしまったことに対して——— 「俺、あの人とすでに会ってました」 「そうなの? 昨日、来る途中に?」 文太は、軽く頷いた。 そう、すでに会っている。昨日以外にも、もう一度。 そうだ、彼の名前は梓だった。 佐野(さの)(あずさ)———— 忘却の荒野に潜んでいた記憶の根から、彼の断片が芽吹いていく。 思えば、真顔を見たのはこれが初めてだ。 最初に会った時も、昨日再会した時も、佐野梓は泣いていた。 文太のなかにある彼の印象は、泣き顔だけだった。 「よし、じゃあ戻るよ。今日は天気いいから、布団干ししなきゃ。梶川君の最初のお仕事」 澱みなく、からりとした楠本の声が響いて、文太は顔を上げた。 「干すってどこに?」 「屋根」 「え、本気ですか? 俺、高所恐怖症なんですよ」 「標高2000メートルで何言ってんだよ」 楠本の豪快な笑い声が響くなか、文太はもう一度、テントを見た。 入り口が完全に閉ざされたテントは、風にはためいて微かに揺れているだけだ。 布越しからは、もうなにも伝わってはこない。 気づけば楠本はすでに室内に入っていて、文太は慌てて歩き始めた。 着地した際、今度は中指を石にぶつけてしまい、低く唸る。風だけがせせら笑うようにして、文太のTシャツの裾をはためかせた。
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