3. 星降る夜に

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「その服、未来(みらい)のだろ」 「え?」 文太は俯いて、微かに膨らんだ自分の胸元を見た。グレーと白のちょうど中間のような色をした、羽毛のすっかりしぼみ切ったダウンジャケット。 もちろん、自分のものではない。自分ならこんな色は買わない。 そう、これは全部お下がり——梶川未来、8つも歳の離れた、自分の兄のものだった。 「未来が帰ってきたのかと思った」 梓は怒ってはいなかった。むしろ、慌てふためく文太を見て、楽しんでいるようにも見える。 ただ、その冗談めかした態度から、悲哀が噴煙をあげているのを見逃さなかった。 「違うんです! あの、騙すつもりとかじゃなくて、単に金なくて、装備が買えなくて。それに、あの避難小屋でのことも……」 「だめだ。雲が邪魔だな」 彼は文太の言葉を遮るようにして、カメラと夜空に忙しなく目線を交差させた後、振り返った。 その一連の動作で文太は、彼が自発的に語り出すまで、兄の話題を出すのはやめておこうと思った。 「名前なんだっけ」 「あ、文太です。梶川文太」 名を言った瞬間、彼の口元が緩み、薄く開いた唇から細く白い息がのぼった。 名前を笑われたのだとわかって、鼻の付け根が熱くなる。 「文太、あの雲退けて」 「え!?」 「あれ。邪魔だから」 上空の、平たく伸びた雲を顎でしゃくっている。 無茶振りもそうだが、あっさりと名前を呼び捨てされたことにも動揺した。 彼はただこちらをじっと見て、うろたえる様子を面白そうに伺っている。 なにかしなくては終わらないのだろう。 文太は口先を尖らせると、上空の雲めがけて、吹きかけるように息を吐き出した。 「なにしてんの」 「なにって、フーフーしてるんです。雲に」 当たり前だが、雲が散らばる様子はない。それでも気休めに息を吹き続けていると、梓が肩を震わせていた。 「なんで笑ってんですか!」 「いや、馬鹿だなって」 「梓さんが無茶なこというからでしょ……」 よほどツボに入ったのか、彼は腕を前に組んで、屈むような体勢で笑っている。 文太は息を吐くのを止めて、梓を遠慮なく見つめた。 背丈は自分よりもやや高いぐらいだし、兄同様、自分とは8つ、年が離れているはずだ。 しかし、合間合間に高い声を漏らしながら、無防備に目を細めている姿は、可愛らしいという表現以外に思い浮かばなかった。 「今日はもうやめよ」 彼がむっくりと体を起こし、機材を片付け始めた時、文太は慌てた。 見つめていたことを不快に思ったのだろうか。 彼は慣れた手つきで三脚を畳むと、文太の胸に押しつけてきた。 「これ運ぶの手伝え」 投げるように言ったきり、振り向きもせずに歩いていってしまう。 カーボンの冷たい感触を受け止めながら、文太はその後をついていった。
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