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梓のテントは、大人が3人ほど横になれる程度の居住空間があった。
長期滞在するには、ソロテントでは窮屈なのだろう。
バックパックやクッカー類などはすべて前室に置いてあり、寝室スペースにはマットとシュラフ、LEDランタンがひとつあるだけだった。
コーヒー飲んでけば。
梓からそう誘われた時は驚いた。
何せ、先ほどまで無視されていたぐらいだ。多少言葉を交わしたぐらいで、まさかテントの中に招かれるとは思っていなかったのだ。
「お邪魔します」
室内に腰を下ろした途端、緊張が押し寄せてきた。
湯を沸かす梓の背中を見つめていると、ますます落ち着かない。
だから背後に手をついて、寝床の横に無造作に置かれた文庫本に視線を落としたり、小さなガスストーブから吹き出す炎の音、湯がふつふつと煮える音、フライシートを叩く山風に耳を澄ませたりしていた。
「砂糖とミルクは?」
「あ、だいじょぶです。ブラックで……」
半身を前室に投げ出していた梓が、マグカップを持って室内に入ってくると、やはり緊張した。
「ありがとうございます」
文太は軽くお礼を言ってから、勧められるがままにコーヒーを一口飲んだ。
チタン製のマグカップはざらりと粘膜に張り付き、口当たりが慣れない。
それに、向き合ってからというもの、絶えず彼からの視線を感じている。
カップの底を見つめたままでいるのも限界で、文太は思い切って顔を上げた。
梓はやはり、こちらを見ていた。
「ほんとに未来を見てるみたいだな」
ふたたび兄の名前を口にした時の彼の目は、ランタンの影響を受けて、温かく光っていた。
「最近、似てきたねってよく言われます」
梓は湯を沸かしていた1人用の鍋に自分の分のコーヒーをいれていたが、揺らすばかりで口をつけようとしない。
じっとこちらを見つめていたかと思えば、時折、耐えられなくなったかのように目を伏せる——そんな動作を繰り返している。
光の加減で、その長いまつ毛が少し濡れているように見え、文太は反射的に俯いた。
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