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「前に会った時、文太はまだ小学生だったのにな」
まあ、覚えてないだろうけど。
追って出た言葉は、まるで独り言のようだった。
文太はあぐらをかいてできたわずかな空間にマグカップを置いた。
「覚えてますよ、梓さんのこと。ちゃんと……」
幼い頃の記憶で、最も強く印象に残っているのは、彼の体勢だ。
梓はずっと床に額をつけたまま、顔を上げなかった。
死なせてすみません。
俺だけ生きててすみません。
俺が死ねばよかったんです。
すみません。ごめんなさい。
床に突っ伏したまま、両親と文太の前で、しきりにそう繰り返していた。
見かねた両親が肩に手を置いても、いいからと声をかけても、彼は悲痛な叫びをあげるだけだった。
ようやく顔を上げた時に、わずかにのぞいた彼の目は虚ろで、涙ですっかりふやけていた。
だから先日、如月避難小屋で再会した時——同一人物だと気づくまでに時間がかかったのだ。
そう、泣き顔を見るまでは。
「あの、変な風にとらないでほしいんですけど——嬉しかったんですよ、俺。梓さんと避難小屋でまた会えた時。今も変わらず山が好きで、登ってるんだなって」
こちらの言葉に、梓は眉ひとつ動かさない。その冷静さに怯みそうになったが、文太はなんとか続けた。
「うちの両親だって同じこと思ってます。兄が遭難したのが梓さんのせいだなんて思ってないし、兄のことがきっかけで、好きな登山をやめてほしくないって、いつも言ってました」
「好きとは、違うと思う」
それっきり、言葉が続かない。
もしかしたら自分は、なにか検討違いなことを言ってしまったのだろうか。
せっかくほころびかけた表情は、なんのきっかけでまた固く閉ざしてしまうかわからない。
文太は黙ったまま、コーヒーに口をつけた。
チタンの縁が歯にぶつかり、肌が粟立つ。
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