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「ところで、なんで文太なの」
しかし彼は、文太の懸念からそっぽを向くように、言葉足らずな質問をしてきた。
「何でって、どういう……」
「名前。未来と文太って、兄弟でずいぶん違うから」
その質問には慣れている。だから、返事はお決まりの定型文だ。
「未来は母親がつけた名前で、俺のは、兄がつけた名前なんです」
「へぇ……」
「俺だけ古臭い名前だなって思ってるでしょ?」
口を尖らせながら問うと、彼は意外そうに、眉をわずかに上げた。
「いや? ただ、俺が子どものころに飼ってた文鳥と同じ名前だなって思って」
文鳥の文太。あまりにも短絡的だが、子どもらしい発想ではある。
「文鳥と同じなんだ……」
それは、文太にとっては何の意図もない、ぽつりと溢しただけの一言だった。
しかし、思ったよりも悲観的な響きになってしまったらしい。
梓は肩を怒らせて、押し殺すように笑ったあと、顔を上げた。
「いいじゃん、文太って名前、俺は好きだよ」
柔らかい声が、全身を撫でる。
この、全身の毛穴が開くような目覚めの感覚は何なのだろうか。
彼が初めて、自分と目を合わせてくれた。兄ではなく、文太として文太を見た。
ただそれだけのことに、なぜこんなにも感動しているのだろうか————
「文太は普段から山登ってんの?」
「いや、登ってないし、登る気もなかったんです。今回はたまたま友達の代理で2カ月だけ働くことになって。まぁ暇だし、気分転換になるし、いいかなって」
「登山経験がなくていきなりこんなとこにひとりで来たのかよ」
厳密にいうと、登山経験がないわけではない。
子どものころ、兄の生前はよく家族でハイキングをしていたものだ。
しかし、わざわざ補足するほどのことでもないから、あえて口には出さなかった。
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