557人が本棚に入れています
本棚に追加
/293ページ
「無謀だったなと、自分でも反省してます。でも来てみるといいですよね。みんなが山にのめり込む理由が、なんとなくわかる気がする」
毎日、くたくたになるまで体を動かし、夜の到来とともに眠る生活。
仕事が忙しくても、時間に追われるような感覚はなく、スマートフォンを気にすることもない。
山には山の、独自の時間軸があるようで——文太はそれを気に入りつつあった。
「意外と向いてるのかもしれません。山での生活に」
梓はコーヒーの入った小鍋を前室に置くと、膝を抱えて座り直した。
テントに軽く寄りかかり、半分微睡んだような目で、文太を捉えている。
この男は、いったいいくつ視線をもっているのだろうか。
瞼の開き具合や強さ、光の加減でまったく別のものに見える。
そして今のそれには、変わらず穏やかさは保たれているが——先程までは感じられなかった圧が、はっきりと存在していた。
「のめり込むなよ」
「え?」
「お前は山にのまれるな」
言い放つと、梓はふたたび前室に下半身を投げ出した。どうやら、靴を履いているようだ。
「どこ行くんですか」
「トイレ。文太もそろそろ戻れ。明日早いだろ」
一度、テントを大きく揺らしてから、梓は外へと出て行ってしまった。
お前は山にのまれるな。
静かに、しかしはっきりと口にした。
彼が文太をテントに呼んだ1番の理由は、これが言いたかったからなのかもしれない。
最初のコメントを投稿しよう!