3. 星降る夜に

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——8年前、兄は忽然と厳冬期の山に潜む魔物にのまれてしまった。 当時まだ小学生だった文太にとって、その記憶は断片的で曖昧だ。 ただ、千切れて残ったそれらのかけらは、時が経った今もくっきりと、奇抜な鮮やかさを保っている。 当時の兄のたったひとりの同行者が、大学のワンダーフォーゲル部の仲間である、佐野梓だったこと。 山行途中で天気が荒れて停滞し、ふたりして真っ白な世界に封じ込められたのち——兄は滑落し、梓だけが生き残ったこと。 事故が起きた時、ふたりがどうも別行動を取っていたらしいこと。 兄が見つかるまで、そして見つかってからの記憶は、それら断片に比べて大分ぼんやりしている。 逆にすべてが鮮明なままだったら、幼いながらにもたなかっただろう。 最初の捜索では、ふたりが休んでいた小屋から100メートルほど登った地点の斜面で、兄の使っていたピッケルが見つかったが、そのほかの装備と兄自身は見つからなかった。 山岳救助隊の見解によれば、兄は斜面を滑落したのち、雪渓の割れ目——いわゆるシュルンドに落ちたのだろうということだった。 深いシュルンドの下には水が流れていて、その激流にのまれたら生存はおろか、見つかる可能性さえ低い。 捜索は悪天候のため難航し、一度打ち切られ、雪解けを待ってから再開された。 兄は、想定していた場所から離れたところで、ほんのわずかなかけらとなって見つかった。 発見されたのは、右の膝下だけだったらしい。 見解通り、岩に叩きつけられながら雪の裂け目に落ち、融雪の激流にもまれたのだった。 唯一見つかった部位も損傷が激しく、幼い文太はショックを受けるだろうという配慮から、目にすることはなかった。 だから兄の死がいつまでも夢のようだった。 両親、とりわけ母親は泣いていたと思う。 しかし、捜索が打ち切られている間——諦めと僅かな希望の波長に揺られているときの苦痛、そしてその波長が、段々と水平になっていくような感覚は、一家にとっては耐えがたいものだったから、それらから解放されることへの安堵も、たしかにあった。 兄が見つからなかった間、家族がどのように過ごしていたかはよく思い出せない。 鮮明と曖昧の、より曖昧なほうに分類されている。 しかし、梓の叫び、床に額をくっつけているあの姿は、断片のなかでもよりくっきりと、文太に根づいているのだった。
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