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——8年前、兄は忽然と厳冬期の山に潜む魔物にのまれてしまった。
当時まだ小学生だった文太にとって、その記憶は断片的で曖昧だ。
ただ、千切れて残ったそれらのかけらは、時が経った今もくっきりと、奇抜な鮮やかさを保っている。
当時の兄のたったひとりの同行者が、大学のワンダーフォーゲル部の仲間である、佐野梓だったこと。
山行途中で天気が荒れて停滞し、ふたりして真っ白な世界に封じ込められたのち——兄は滑落し、梓だけが生き残ったこと。
事故が起きた時、ふたりがどうも別行動を取っていたらしいこと。
兄が見つかるまで、そして見つかってからの記憶は、それら断片に比べて大分ぼんやりしている。
逆にすべてが鮮明なままだったら、幼いながらにもたなかっただろう。
最初の捜索では、ふたりが休んでいた小屋から100メートルほど登った地点の斜面で、兄の使っていたピッケルが見つかったが、そのほかの装備と兄自身は見つからなかった。
山岳救助隊の見解によれば、兄は斜面を滑落したのち、雪渓の割れ目——いわゆるシュルンドに落ちたのだろうということだった。
深いシュルンドの下には水が流れていて、その激流にのまれたら生存はおろか、見つかる可能性さえ低い。
捜索は悪天候のため難航し、一度打ち切られ、雪解けを待ってから再開された。
兄は、想定していた場所から離れたところで、ほんのわずかなかけらとなって見つかった。
発見されたのは、右の膝下だけだったらしい。
見解通り、岩に叩きつけられながら雪の裂け目に落ち、融雪の激流にもまれたのだった。
唯一見つかった部位も損傷が激しく、幼い文太はショックを受けるだろうという配慮から、目にすることはなかった。
だから兄の死がいつまでも夢のようだった。
両親、とりわけ母親は泣いていたと思う。
しかし、捜索が打ち切られている間——諦めと僅かな希望の波長に揺られているときの苦痛、そしてその波長が、段々と水平になっていくような感覚は、一家にとっては耐えがたいものだったから、それらから解放されることへの安堵も、たしかにあった。
兄が見つからなかった間、家族がどのように過ごしていたかはよく思い出せない。
鮮明と曖昧の、より曖昧なほうに分類されている。
しかし、梓の叫び、床に額をくっつけているあの姿は、断片のなかでもよりくっきりと、文太に根づいているのだった。
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