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梓が男性を連れて戻ってきたのは、出かけてから2時間が経ち、すっかり日が落ちたころ。
男性は、歩行量に対して摂取カロリーが少ない時に起こる、いわばシャリバテ状態だった。
道中で停滞しているうちに体が冷え、やはり行動不能に陥っていたらしい。
低体温症の兆候は見られるが、怪我はないとのことで、男性はそのままヒュッテ霜月に泊まることになった。
予定では神無月小屋に宿泊後、さらに北にある蜜ヶ岳まで登るつもりだったそうだが、梓の判断により、明日はヒュッテ霜月から最短で下山できる宇田川登山口に下りることになった。
男性ひとりではなにかと心配なので、岳が同ルートで帰る予定の宿泊者に声をかけ、一緒に下山してもらうための諸々の手配も済ませた。
繁忙期に起きた遭難騒ぎは、これにて一件落着したというわけだ。
「梓さんすごいよね。あのお客さん、けっこう大柄なのにおぶってたじゃん」
楠本の感心したような声に、なぜか文太が誇らしい気持ちになった。
梓はひとりで男性を背負って帰ってきた。
男性の体が離れないよう補助的にロープで固定をして、登山道を歩いてきたわけだ。
カメラ機材を運んで山に入る体力が備わっていることはもちろん、やはり登山の技術と知識があるからだろう。
あのロープワークを見た限りだと、もしかしたら山岳レスキューについても、学んでいるのかもしれない。
「このケーキ、梓さんにも差し入れようと思ってます」
「そうしなよ。てか、むしろそっち優先でいいから」
でも、焼きたてうまそう。
最後に呟いた楠本の素直さに、文太は笑ってしまった。
包丁を入れた断面から、あまい湯気が立つ。
その一切れをすくって渡すと、楠本はわかりやすいぐらいに目を輝かせた。
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