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文太の葛藤がいとも簡単に崩れたのは、ある日の休憩時間だった。
従業員は毎日、朝食後にそれぞれ休憩を取るが、その時間帯は大体、奈良の姿が見えない。
今まで意識したことのなかった彼の不在が、梓との一件以来、妙に気になった。
しかし、梓は朝から撮影に行ってしまうことが多いため、ふたりが密会している可能性はなさそうだ。
いつもなら食後はだらだらしている文太が、今日に限っては小屋内をうろついているのが気になったのか、厨房から岳が顔を覗かせた。
「誰か探してんの?」
「奈良さん、どこいったんですかね」
「この時間はいつも電話しに出かけてるよ」
「電話ですか?」
つまり、電波の入る場所まで出かけているということだ。
近年では東アルプスの山域のほとんどのエリアで電波が入るようだが、ここ一帯は秘境と揶揄されるだけあって、未だに例外である。
このあたりの稜線は周囲が谷に囲まれていて、やや窪んだ地形になっているため、電波がうまく飛ばないらしい。
まれに入ることはあるものの、通信手段としては機能しないのである。
だから、スマートフォンを使いたい時は、電波の入る如月避難小屋のさらに北まで行かなくてはならなかった。
「毎日欠かさず、彼女に電話しに行ってるんだよ」
「彼女? 奈良さん、彼女いるんですか?」
「そ。同棲してる子。付き合ってもう5年以上経つはずなのに、まめだよね」
予想外のことに、文太は混乱した。
5年以上付き合っていて、一緒に暮らしている彼女——むろん、梓ではないだろう。
たぶんもう帰ってくるよという岳に空返事をすると、文太は食堂から出た。
すると、岳の読み通り、北の稜線から奈良が歩いてくるのが見えた。
文太も自然と、彼に歩み寄っていた。
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