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相当、かたい表情をしていたのだろうか。
距離が近づくにつれて、奈良の顔つきに緊張が浮かんだ。
そしていよいよ対面した時、彼は雰囲気をどうにかほぐそうと、半笑いを浮かべた。
「なに、おっかない顔して」
「梓さんと付き合ってるんじゃなかったんですか」
奈良の三白眼の黒目が、火の粉のように、不安定に揺れる。
また、文太自身も同様に驚いていた。声に怒りが滲み出ていたからだ。
「付き合ってないよ、別に」
「じゃあなんで……」
「テントに飯持っていったり、たまに電話しにいくタイミングが重なることがあって喋るようになって。し、自然な流れで……?」
奈良にしては珍しく、歯切れが悪い。口が達者で、いつもならば大抵のことは屁理屈でうまく言いくるめてしまうのに。
文太は短い息をひとつ、吐いたつもりだった。
しかしそれが予想外の大きなため息となって流れ出ると、やはり、自分自身にうろたえそうになる。
「彼女がいるんですよね、奈良さんは……」
「いやだからさ、別にゲイってわけじゃないから。彼女のことは大事だし。ただ、ずっと男ばっかの環境にいるじゃん。だから、なんかこう、色んなことが麻痺するっていうか……。わかるだろ?」
文太は、サンダルの隙間に入り込んだ小石を振り落として、彼の登山靴のつま先を見つめた。
たしかに、山の上というのは特殊だ。
下の世界と長いこと切り離されていると、部分的な感覚は研ぎ澄まされていく一方、あらゆることが鈍り出すのも事実である。
しかし、麻痺をするとか、おかしくなっていたからとか、そう言った表現を梓に当てはめられるのは——なぜか無性に不快だった。
「梓さんは大丈夫。相手は俺だけじゃないし、むしろ割り切ってるのはあっちのほうだしさ。たぶん、ブンでもいけるって」
「え?」
「だから、お前もたぶん押せばいけるよ。やりたいんでしょ?」
あまりにも突拍子のない励ましに、耳を疑う。
そんな風に思われるのは心外だった。
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