6. 帰らざる客

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この日は、風もなく、山にかかる雲ひとつない天気だった。 東アルプスの北端に位置するこの山域も、夏休みをつなげて訪れる登山者が多いらしい。 ちょうど好天が続いたこともあり、この週末、ヒュッテ霜月は今シーズンいちばんの活気を見せた。 あまりの忙しさに目が回りそうではあったが、小屋内が賑わっているのは素直に嬉しい。 雨が続いていた先週などは、客入りも寂しいものだったからだ。 「ブン、お弁当忘れてるお客さんいる」 慌ただしさのなかを割り込むようにして、奈良の声が響く。 そこには包みがふたつ、カウンターに残されたままだった。 朝夕の食事は通常2回、混雑時は3回の入れ替え制にして提供しているが、なかには朝食前に出発を希望する宿泊者がいる。 その日の行動時間が長いからなるべく早く出たい、混み合う前に岩場などの難所を通過してしまいたいという理由からだ。 だから、早出を希望する宿泊者には、あらかじめ朝食を弁当箱に詰めておく。 弁当は食堂のカウンターに人数分用意しておき、各自で引き取ってもらうシステムだが、たまにこうして引き取り忘れてしまう人がいた。 「じゃあ俺、渡しに行ってきます」 「うん。頼む」 文太はエプロンを脱ぐと配膳を奈良に任せて、受付へと回った。 包みには奈良特有のミミズのような文字で「ハラダさま」と書いてある。 昨日、受付で文太が対応した宿泊客だから、顔はなんとなく覚えていた。たしか、60代後半ぐらいの夫婦だったはずだ。 入り口を見回すと、ハラダと思しき男性はちょうど玄関で登山靴の紐を締めているところだった。 ハラダ妻はすでに先に外に出ており、空の様子を見ている。 「ハラダさん」 声をかけると、ちょうど紐を縛り終えた男性が顔を上げた。 白髪頭だが毛量が多く、若々しく見える。 山に登り慣れているのか体が引き締まっていて、姿勢がいいのもその理由のひとつだろう。 「朝食のお弁当、受け取り忘れてましたよ」 包みを差し出すと、目を丸くしてこちらを伺っていた表情が緩み、目尻に皺が寄った。 「ああ、ありがとう。うちのに取りに行くように言っといたんだけど、忘れてたみたいだね。食いっぱぐれるとこだったよ」 ほんと、あいつは抜けてるからなぁ。 遠くにいる妻を顎でしゃくりながら笑う。 からかってはいるが、口調や表情に愛情が含まれていて、微笑ましくなった。
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