6. 帰らざる客

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「今日はどちらまで行かれるんですか」 「これから藤見(ふじみ)ヶ岳と里見(さとみ)新道を経由して、文月(ふみつき)山荘に泊まる予定だよ」 行程を聞いて、文太は眉を上げた。 まず気になったのは、行動時間の長さだ。ここから文月山荘までは、約8時間。 さらに、ヒュッテ霜月から藤見ヶ岳へと続く南の稜線の一部は、師走(しわす)キレットと呼ばれる急峻な岩場になっていて、ハシゴや鎖を伝いながら這う難所がある。 一般的には、同じ道でも藤見ヶ岳からヒュッテ霜月へと辿る方が、上りが続くぶん易しいといわれており、大半の人はそのルートを取る。 しかし、彼らはここから藤見ヶ岳、すなわち難しいとされる逆ルートで師走キレットを通過するというのである。 このルート取りをする場合、急峻な岩場を下りで通過することになるため、たまに滑落者が出ることを、岳から聞かされていた矢先だった。 しかし、そんな文太の動揺を、ハラダはとうに察しているらしい。 「天気がいいから岩場もハシゴも乾いてるだろうしね。ぐずぐずしてると、今日みたいな日は渋滞しちゃうでしょ。すいてるうちに抜けちゃおうと思ってね」 どうやらハラダは、自身よりいかにも経験値の少なさそうな文太から心配されるのを、快く思っていないらしい。 有無を言わさぬ口ぶりに圧されて、文太は深掘りすることができなかった。 「今日、天気いいですもんね」 「そう。だからゆっくり行くよ。うちのも足が遅いしね」 そうして男性は、ザックにふたつぶんの弁当を入れると、ショルダーハーネスに腕を通して、上体を屈めた。 テントを担いでいるわけでもないのに、60リットルはある大型ザックだ。 対して、外にいるハラダの妻は日帰りのデイパックを背負っている。 体力のない妻の分まで、彼が荷物を負担しているのだろう。 「じゃあ、どうもありがとうね」 男性は笑って片手をあげると、玄関を出ていった。 心なしか顔色がよくないのが内心気になりながらも、文太も手を振り返す。 「気をつけていってらっしゃい!」 足元を渦巻く薄雲を吹き飛ばすようにして、いつもより声を張った。
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