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「今日はどちらまで行かれるんですか」
「これから藤見ヶ岳と里見新道を経由して、文月山荘に泊まる予定だよ」
行程を聞いて、文太は眉を上げた。
まず気になったのは、行動時間の長さだ。ここから文月山荘までは、約8時間。
さらに、ヒュッテ霜月から藤見ヶ岳へと続く南の稜線の一部は、師走キレットと呼ばれる急峻な岩場になっていて、ハシゴや鎖を伝いながら這う難所がある。
一般的には、同じ道でも藤見ヶ岳からヒュッテ霜月へと辿る方が、上りが続くぶん易しいといわれており、大半の人はそのルートを取る。
しかし、彼らはここから藤見ヶ岳、すなわち難しいとされる逆ルートで師走キレットを通過するというのである。
このルート取りをする場合、急峻な岩場を下りで通過することになるため、たまに滑落者が出ることを、岳から聞かされていた矢先だった。
しかし、そんな文太の動揺を、ハラダはとうに察しているらしい。
「天気がいいから岩場もハシゴも乾いてるだろうしね。ぐずぐずしてると、今日みたいな日は渋滞しちゃうでしょ。すいてるうちに抜けちゃおうと思ってね」
どうやらハラダは、自身よりいかにも経験値の少なさそうな文太から心配されるのを、快く思っていないらしい。
有無を言わさぬ口ぶりに圧されて、文太は深掘りすることができなかった。
「今日、天気いいですもんね」
「そう。だからゆっくり行くよ。うちのも足が遅いしね」
そうして男性は、ザックにふたつぶんの弁当を入れると、ショルダーハーネスに腕を通して、上体を屈めた。
テントを担いでいるわけでもないのに、60リットルはある大型ザックだ。
対して、外にいるハラダの妻は日帰りのデイパックを背負っている。
体力のない妻の分まで、彼が荷物を負担しているのだろう。
「じゃあ、どうもありがとうね」
男性は笑って片手をあげると、玄関を出ていった。
心なしか顔色がよくないのが内心気になりながらも、文太も手を振り返す。
「気をつけていってらっしゃい!」
足元を渦巻く薄雲を吹き飛ばすようにして、いつもより声を張った。
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