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「ってかさ、ここで働き始めてだいぶ経つけど、梓さんが接客してんの初めて見たわ。愛想笑いできるんだな、あの人。普段は無表情だからすっごい意外だった」
昨日は受付のオペレーションが間に合わず、急遽、梓にも助っ人に入ってもらったのだった。
これまでも小屋の手伝いはしてくれていたが、そのほとんどは裏方で、彼が接客業務をすることはなかった。
つまり、かなりレアな状況だったというわけだ。
岳以外のスタッフは梓の貴重な営業スマイル見たさに、業務の合間を縫って、代わる代わるその様子を伺いに行ったくらいだ。
「笑うと可愛いですよね、梓さんって」
文太が言うと、楠本は手を止めて体をこちらに向けた。
「なにブンちゃん。もしかして梓さんの毒牙にかかっちゃったの?」
「毒牙ってなんすか。毒なんてないでしょ、あの人に」
あんなに無垢に笑う彼のどこに————
「そうやって油断してると落とされちゃうよ。言ったでしょ。過去に梓さん巡って従業員同士が揉めたって。あの人は魔性なんだってば」
「その、揉めた従業員って……」
「もちろん男だよ。うちの小屋、男しかいないじゃん?」
ゴム手袋の内側が汗で滑り、文太はいったん両手とも外した。
手を軽く振るが、汗がなかなか乾かない。
「当時のヒュッテ霜月って、岳と梓さん含めてスタッフ4人いたらしいんだけど、梓さんさ、岳以外の2人とヤってたらしいんだよね。で、ふたりとも梓さんに本気になっちゃって」
「……結局、どっちかとくっついたんですか」
「くっついてないよ。梓さんは遊びだったみたいでさ、無関心っていうかうわの空っていうか、板挟みになってる張本人なのに、どこか蚊帳の外みたいな感じだったらしい」
文太は凹んだステンレスのシンクをぼんやりと見つめながら、想像した。
驚くほどあっさりと、その執着のない様が浮かんでくるのは、以前、奈良とのやりとりを見ていたせいだろう。
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