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「だって、別にそういう雰囲気になんなかったですよ。というかならないでしょ、普通は」
梓からそんな雰囲気はまったく感じられなかったのだ。
優しく、時折悲しそうに、青と赤の比率を変えてゆらめく炎のような目で——文太をただ見ていた。
「じゃあブンちゃんはこっち側なんだな」
回想にふけっていると、楠本の通りの良い声が割り込んできた。
「こっち側?」
「お声がかからない組。梓さんのタイプじゃないってこと」
文太は尖りそうになる唇をきつく結んで、曖昧に首を傾げた。
たしかに、お誘いはかからなかった。
だが、楠本の振り分ける、あまりにも単純でしかも下世話なそのどちらかに二分されるのは——どうも腑に落ちない。
自分は梓のあっちでも、はたまたこっちでもない。
もっと緻密で繊細な、複雑性をともなった中にいる——なぜだかそう思いたかった。
文太は投げ捨てられた布巾を掴むと、洗い終えた皿の水滴を拭き取った。
最後のその皿を重ね終えた時、一言文句を言ってやろうと、楠本のほうを向く。
しかし彼の意識はもう、こちらにはなかった。
彼は、全神経を厨房へと続く廊下——すなわち入口のほうへ集中させていた。
「陽紀さん?」
なにかを確信したらしい楠本が、厨房から出て行く。
そんな彼の様子を見て、文太は足がすくんだ。
以前、行動不能の登山者が出た時も、彼はいち早く異変に気づいて厨房を飛び出していったからだ。
長年、山で培われた感覚なのだろうか。
小屋のなかに流れ込んできた危険な香りを、彼はいち早く嗅ぎ分ける。
胸騒ぎを覚えながら、文太も後を追った。
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