6. 帰らざる客

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✳︎ 入り口付近では岳と奈良、数名の登山者が固まって話をしている。 登山者のひとりは南方の稜線——すなわち、鋭い岩稜帯を指差して、時折、ジェスチャーのようなものを織り交ぜながら、岳になにかを訴えていた。 やがてそこに楠本が加わり、話し始める。 文太だけがその固まりのなかに加わることができず、玄関の三和土に取り残されたままだった。 今はなにかとてもわるいことが起きていて、それを目の当たりにしてしまったら、ずっと癒えないままの瘡蓋が剥がされてしまう——なんとなく、そんな気がしたのだ。 間もなくして、楠本が戻ってきた。 彼は至って冷静で、取り乱しているわけでもない。 ただ、無表情を繕った厚い皮膚の下に、深い悲しみが隠されていた。 そして、彼が口を開いたとき——文太のなかにある「わるい予感」は的中するのだろうと悟った。 「師走キレットでふたり落ちた」 落ちた——それはすなわち、滑落を意味する。 文太は、全身の末端が凍てつくような痛みに襲われ、同時にその衝撃を体が、細胞ひとつひとつが覚えていたことに、新たなショックを受けた。 「落ちたって……どうなったんですか?」 「1人は無事みたいだけど、もう1人はわかんない。かなり下まで落ちたらしい。今、梓さんと(たくみ)さんが現場に行ってる」 「匠さん?」 「あ、神無月小屋の支配人。須崎(すざき)匠さん」 ——神無月小屋は、如月避難小屋のさらに北にある小屋だ。 ヒュッテ霜月からは徒歩1時間半程度の距離で、同じ沢村グループが経営している。 小屋の先には花の名山である蜜ヶ岳がそびえており、最盛期である夏は、とりわけ花見客の利用が多いらしい。 「とにかく、俺らは仕事に戻ろう。あとは岳がなんとかしてくれるから」 「なんとかって——」 「俺らが関われることじゃないよ。救助できるわけじゃないし」 文太は、楠本に続いてふたたび厨房へと戻った。 丸めた拳のなかで、無力感が燻る。 楠本が仕込んだウインナーは、ケチャップが冷え固まった状態で、皿の上に転がっていた。
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