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——梓が帰ってきたのは、その2時間後だった。
ふたたび入り口付近が騒々しくなり、文太も作業を止めて様子を見に行った。
瞬間、新たなショックが文太を襲う。
梓が連れてきた滑落者と思しき女性は、今朝自分が見送った、ハラダの妻だったからだ。
ハラダ妻は2メートルほど滑落したが、岩のテラスに引っ掛かり、無事だった。
しかしそこから自力で這い上がることができずにいたらしく、梓と須崎が引き上げて、ことなきを得たらしい。
幸い、怪我自体はかすり傷程度で自力歩行も可能だったという。
それでも彼女は、しきりに夫の安否を気にし、そばにいたいという一心で、その場から離れようとしなかった。
だが、切れ落ちた稜線でこのまま待機するのは危険ということで、どうにかしてなだめた後、ここまで連れて帰ってきたとのことだった。
ハラダ妻は憔悴しきっており、地べたに座り込んだまま動こうとしない。
梓は向き合ってしゃがみ込み、彼女にしきりになにかを語りかけている。そして、その背中を優しくさすってやっていた。
「奥さんが浮き石を踏んでバランス崩して、先に落ちたらしい。で、旦那さんがそれを助けようとして、さらに滑落した」
岳の言葉に、体が硬直していく。
師走キレットを通過したことはなかったが、休憩時間を利用して、近くまで散歩に行ったことがある。
だから、現場がどれだけ危険な場所かぐらいは把握していた。
ナイフリッジと呼ばれる稜線は、どちらの斜面も切れ落ちていて、その名の通り、刃物のように鋭く尖っている。
そこから、岩稜帯の急斜面を滑落したら———
文太は振り切るように、岳に耳打ちした。
「それで、あの——旦那さんのほうは……」
岳の雰囲気が気落ちしたものに変わり、一縷の望みは絶たれた。
「50メートルは落ちたみたい。かろうじて目視はできるらしいけど、呼びかけにも応答しないって」
「でも、もしかしたら気を失ってるだけじゃないんですか?」
食い下がる文太に対し、岳はただ哀しげに口角を結ぶだけだった。
その緩やかな唇のカーブを見つめていると、次第に自身の呼吸が短く、浅いリズムになっていく。
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