557人が本棚に入れています
本棚に追加
朝、こちらに手をあげて玄関を出て行った彼の姿や、妻を優しげに見つめていた目の光がめまぐるしくまわり、膝が震えた。
岳は、消沈している文太の腕を、喝を入れるために一度叩き——それから慰めるように優しく撫でてきた。
「現場にいた登山者がすぐに救助要請してくれたから、あとは任せよう。今日は天気もいいし、まだ午前中だからそんなに長引かないと思うよ。救助隊が来るまで、現場には匠が残ってくれてるから」
背中を押され、元のポジションに戻ることを促されても、文太はその場から動けずにいた。
こんな状況なのに、与えられた仕事をただこなしているだけでいいのだろうか。
この場にいる、限られたうちの人間のひとりなのに。
落ちたのは、自分が朝見送った、ヒュッテ霜月の宿泊者なのに————
すると、梓が小屋に入ってきた。
ハラダ妻の姿は見えない。
「岳、奥さんの方はとりあえず俺のテントで休んでもらうことにした。俺も付き添ってるから」
「ああ、悪いな」
梓はいたって冷静だ。表情ひとつ崩すこともなく、感情の一切を露わにしない。
その凛とした強さが、やはり美しいと思った。
一方、こちらの気落ちした様子は、パッと見ただけでわかったのだろう。岳のほうを向き、目配せをしている。
「ああ……。文太、こういうの初めてだからさ。ちょっとショック受けちゃってて……」
それに対して、梓はなにも言わなかった。
「あの、俺にもなにか手伝えることありませんか」
「ない」
ようやく絞り出した言葉も、潔く一蹴されてしまう。
こちらが首を垂れるのを見て、梓は息を吐いた。
「文太だけじゃない。俺にだってこれ以上できることはないんだよ。お前にできるのは、宿泊者に動揺を与えないように、なるべくいつも通り仕事することだ」
先ほどよりかは幾分穏やかな、温かみのある口調だった。
文太がぎこちなく2、3度頷くと、梓はようやく表情を綻ばせて、それから頭を撫でてくれる。
地肌に触れるその指先の冷たさが、深く印象に残った。
「後で——奥さんになにか差し入れ作ってやって」
顔を上げると、梓はもう踵を返していた。
「はい」
無造作に放たれた梓の優しさにしばしの間痺れ、すでに誰もいなくなった入り口に向かって、文太は勢いよく返事をした。
最初のコメントを投稿しよう!