6. 帰らざる客

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朝、こちらに手をあげて玄関を出て行った彼の姿や、妻を優しげに見つめていた目の光がめまぐるしくまわり、膝が震えた。 岳は、消沈している文太の腕を、喝を入れるために一度叩き——それから慰めるように優しく撫でてきた。 「現場にいた登山者がすぐに救助要請してくれたから、あとは任せよう。今日は天気もいいし、まだ午前中だからそんなに長引かないと思うよ。救助隊が来るまで、現場には匠が残ってくれてるから」 背中を押され、元のポジションに戻ることを促されても、文太はその場から動けずにいた。 こんな状況なのに、与えられた仕事をただこなしているだけでいいのだろうか。 この場にいる、限られたうちの人間のひとりなのに。 落ちたのは、自分が朝見送った、ヒュッテ霜月の宿泊者なのに———— すると、梓が小屋に入ってきた。 ハラダ妻の姿は見えない。 「岳、奥さんの方はとりあえず俺のテントで休んでもらうことにした。俺も付き添ってるから」 「ああ、悪いな」 梓はいたって冷静だ。表情ひとつ崩すこともなく、感情の一切を露わにしない。 その凛とした強さが、やはり美しいと思った。 一方、こちらの気落ちした様子は、パッと見ただけでわかったのだろう。岳のほうを向き、目配せをしている。 「ああ……。文太、こういうの初めてだからさ。ちょっとショック受けちゃってて……」 それに対して、梓はなにも言わなかった。 「あの、俺にもなにか手伝えることありませんか」 「ない」 ようやく絞り出した言葉も、潔く一蹴されてしまう。 こちらが首を垂れるのを見て、梓は息を吐いた。 「文太だけじゃない。俺にだってこれ以上できることはないんだよ。お前にできるのは、宿泊者に動揺を与えないように、なるべくいつも通り仕事することだ」 先ほどよりかは幾分穏やかな、温かみのある口調だった。 文太がぎこちなく2、3度頷くと、梓はようやく表情を綻ばせて、それから頭を撫でてくれる。 地肌に触れるその指先の冷たさが、深く印象に残った。 「後で——奥さんになにか差し入れ作ってやって」 顔を上げると、梓はもう踵を返していた。 「はい」 無造作に放たれた梓の優しさにしばしの間痺れ、すでに誰もいなくなった入り口に向かって、文太は勢いよく返事をした。
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