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その日は、いちばん静かな晩だった。
喪失感と無力感、疲労——それらが渦巻き、しじまの波を引き寄せ、山小屋も、点在するテントも、そして自分自身も、すべてが小さく見えるのだ。
一方、星は輝き、黒く塗りつぶされた岩稜の山々は、威厳を保ちながら闇に鎮座している。ちっぽけな自分たちを飲み込む準備はいつでもできているんだぞと言わんばかりの迫力をもって————
文太は澄んだ空気を吸って、ゆっくりと吐いた。
足元が冷えないよう、サンダルでなく登山靴を履いて外に出ると、ヘリポートでカメラを構えている梓を見つけた。
疲れているはずなのにあえて撮影をしているのは、天気がいいからなのか、それとも、気を紛らわすためなのか。
毅然としたその後ろ姿からは、読み取ることができない。
——文太はあえて声をかけずにそっと隣に並び、空を見上げた。
彼はしばらくファインダーを覗き込んだまま、一通り操作し終えてから顔を上げた。
「文太、今日は大変だったな」
「俺はなにも……」
「差し入れありがと。奥さん、お前にも感謝してた」
文太は言葉が詰まり、涙が流れないように目を瞬かせた。
今日のことに関して、梓にだけは涙を見せたくなかった。
文太は持っていた包みを差し出すと、三脚の隣に置いた。
「これ、合間にクッキー焼いたんです」
終日、厨房に詰めていたこともあり、その日の夜の賄いも文太が担った。
従業員は皆疲れていたようだったので、食事とは別に、甘いものを用意したのだった。
「あ、味見してないんですけど、みんなは一応、おいしいって……」
ホットケーキミックスの余りと、チョコレート、ココアパウダーで作ったソフトクッキー。
前回、予想以上に好評を得たので、フライパンとあり合わせの材料で作れるお菓子のレシピを、わざわざ電波の通じる稜線まで出て、収集しておいたのだ。
「じゃあ一緒に食べるか」
梓は言うと、機材を撤収し始めた。
「コーヒーいれてやる」
言われた時、不覚にも楠本と今朝交わした会話が頭をよぎった。
あんなことがあった日なのに、自分は一体、何を考えいるのか。
文太は、寒さでひりつく頬を軽く叩いた。
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