7. 追憶の旅

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相変わらずテントの中にはなにもないから、気を紛らわすこともできず、ただ梓の美しさに引き込まれるばかりだ。 梓と体を重ねた男は多いというが、彼が自ら誘惑したケースは、実はほとんどないのではないかと、文太は推測する。 きっと、彼から出ている妙な波動のせいだ。 同席した者は、それに揺さぶられるうちに、きっと堪らなくなってしまうのだろう。 それが楠本のいう、魔性なのかもしれないが———— 文太は梓と視線を合わせた。 彼の目は穏やかに光り、こちらの燻りがみっともなく感じるほどに、清らかだ。 ただ、しばらく見つめていると、その目が時折、暗く濁るのがわかった。 それはまるで、風に押された雲が、山肌を照らしたり翳らせたりするようなリズムだった。 そしてその時、彼はおそらく兄——未来の姿を、目の前の文太に重ね合わせているに違いなかった。 「梓さんは、男が好きな人ですか」 質問が、よほど唐突だったらしい。 彼の目の揺らぎがなくなり、平行に保たれる。 「そう見えるならそれでいいよ」 短い沈黙を挟んだ後、彼は投げやりにもとれる、どっちつかずの返答をした。 「奈良さんとお付き合いしてるんですか」 「してるように見えるか?」 返されて、文太は言葉に詰まった。 わかりきったことを聞かないでくれというよりも、むしろこちらの反応を探って楽しんでいる節があったからだ。 彼の術中にはまるのは悔しくて、ダウンジャケットの襟に口元を埋めた。 「奈良さんには、結婚を前提に付き合ってる人がいるみたいです」 「知ってるよ」 「じゃあなんで……」 「知らない。本人に聞けば」 彼の口ぶりから察するに、この関係は、奈良から誘って始まったようだ。 思い起こせば、情事を目撃した時も、梓と奈良には温度差があった。 奈良が自ら「関係を断ち切る」と宣言した背景には、これ以上続けたら、やがて本気になってしまうという危惧があるからだろう。
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