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「ちょっと遠回りして帰るぞ」
「え、でも……」
「大丈夫。俺に任せた時点でそんなに早く戻らないって、岳もわかってるから」
遠回りとは、分岐の道標に書いてある「こよみ池散策コース」のことを指しているのだろう。
神無月小屋からやや南に位置するこの分岐から東へと延びる登山道は、いわゆる周回ルートになっていて、如月避難小屋あたりでふたたび主稜線——つまり元の道に合流する。
しかし、このルートを取った場合、1時間以上もロスすることになるのだった。
「こっちに何かあるんですか」
「ん。ちょっと付き合って」
誘われるがままに歩き始めたものの、すぐに急な下り坂が続いた。
文太は登りよりも下りのほうが苦手だった。
疲労のせいで足運びは雑になり、油断していると滑らせてしまう。
いくら空荷になったとはいえ、前半で酷使した膝は、今にも笑い出しそうだ。
そして、いずれは主稜線に合流するとなると——どこかでまた登りがあるのだろう。
うんざりするとともに、小屋のことも気になった。何せ、すでに1時を回っているのだ。早く戻らないと迷惑がかかるだろう。
しかし、そんな焦燥の反面、梓が2人きりの時間を与えてくれていると思うと、純粋な嬉しさもあった。
20分ほど下ると、やがてこよみ池に到着した。
池は直径3メートルほどで思ったよりも小さかったが、あたり一帯は草地になっており、そのなだらかな斜面を、黄色い花が埋めている。
「すごい」
文太は思わず、声を漏らした。
これまでも、道中で花を見かけたことはあったが、いわゆる群落を目にしたことがなかったからだ。
「ニッコウキスゲ。今年は本当に花の当たり年だな」
改めて登山マップを見てみると、こよみ池周辺に花の群落ありという注記がしてあった。
王道コースからは外れているため、訪れる登山者自体は少ないが、花好きの間ではいわゆる「穴場」で通っているらしい。
梓はカメラを構えると、風景を収めるためにシャッターを何度か切った。それから自然光が差し込むと、慌ててレンズを交換し始める。
文太も久々にスマートフォンの電源を入れて、この光景を写真に収めた。
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