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しかし、シャッターチャンスは長く続かなかった。
「あー、ガスが出てきちゃったな」
舌打ちをしながら、梓が顔を上げる。
いつのまにか、あたりには白い霧が立ち込めていて、空と山との境界をあやふやにした。
薄雲のかかったような視界のなか、緑の濃さと点在するニッコウキスゲの黄が際立つ。
そして、それを背景にして立つ梓の、しっとりとした横顔は——儚げで、そして、なんともいえない危うさを持ち合わせていた。
文太は、スマートフォンで花を撮るふりをして、その姿を写真に撮ろうと構えた。
「お、クルマユリも咲いてる」
しかし、シャッターを切る前に、梓が振り向いたため、それは叶わなかった。
「梓さん、花詳しいんですか?」
「もともとは花とか見ながら写真撮ったり、ゆっくり歩くほうが好きだったんだよ。登山というよりも散歩みたいな……」
「え、そうなんですか? てっきり山岳部生まれ山岳部育ちのガチ勢だと思ってました」
「山岳部生まれって何だよ」
梓はレンズを覗き込みながら、ふと表情を緩めた。
シャッターを切る、小気味のいい音が鳴る。
「登山は大学入ってから始めた。それまでは写真撮るために時々、近所の山歩いたりするレベル」
——お前の兄ちゃんに引きずられて、どういうわけかハード路線に行っちゃったけど。
言いながら、黄色い花弁に視線を落とす。
瞳にうつる光はもったりとしていて鈍く、旧友を懐かしんでいるようにも、寂しげに揺らいでいるようにも見えた。
「勧誘されてワンゲル部入ったら、思ってたのと全然違っててさ。でも最初の合宿で未来と仲良くなって——気づいたら、ずいぶんと鍛えられてた」
「鍛えられるってレベルじゃないですよね」
自己中心的なところがある兄だ。きっと、さんざん振り回されたに違いない。
「中高と陸上やってたから、なんとかついていける体力と根性があったのが、運の尽きだな」
そう言いながら力なく笑う彼の、微かに震える口角を——文太はただ見つめていた。
梓を取り囲むどことなく寂しげな雰囲気は、決して生まれもったものではないだろう。
口数は少ないし、感情が表出しにくいのは元の気質だろうが、それでも時折見せる笑みには、本来の明るさがにじんでいた。
兄はどこまでも自己中心的だと、文太は改めて思った。
自分のペースに梓を巻き込んでおきながら、自身は冬の山に飲まれ、あっさりと消えてなくなったのだから————
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