9. 寄り道

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しかし、シャッターチャンスは長く続かなかった。 「あー、ガスが出てきちゃったな」 舌打ちをしながら、梓が顔を上げる。 いつのまにか、あたりには白い霧が立ち込めていて、空と山との境界をあやふやにした。 薄雲のかかったような視界のなか、緑の濃さと点在するニッコウキスゲの黄が際立つ。 そして、それを背景にして立つ梓の、しっとりとした横顔は——儚げで、そして、なんともいえない危うさを持ち合わせていた。 文太は、スマートフォンで花を撮るふりをして、その姿を写真に撮ろうと構えた。 「お、クルマユリも咲いてる」 しかし、シャッターを切る前に、梓が振り向いたため、それは叶わなかった。 「梓さん、花詳しいんですか?」 「もともとは花とか見ながら写真撮ったり、ゆっくり歩くほうが好きだったんだよ。登山というよりも散歩みたいな……」 「え、そうなんですか? てっきり山岳部生まれ山岳部育ちのガチ勢だと思ってました」 「山岳部生まれって何だよ」 梓はレンズを覗き込みながら、ふと表情を緩めた。 シャッターを切る、小気味のいい音が鳴る。 「登山は大学入ってから始めた。それまでは写真撮るために時々、近所の山歩いたりするレベル」 ——お前の兄ちゃんに引きずられて、どういうわけかハード路線に行っちゃったけど。 言いながら、黄色い花弁に視線を落とす。 瞳にうつる光はもったりとしていて鈍く、旧友を懐かしんでいるようにも、寂しげに揺らいでいるようにも見えた。 「勧誘されてワンゲル部入ったら、思ってたのと全然違っててさ。でも最初の合宿で未来と仲良くなって——気づいたら、ずいぶんと鍛えられてた」 「鍛えられるってレベルじゃないですよね」 自己中心的なところがある兄だ。きっと、さんざん振り回されたに違いない。 「中高と陸上やってたから、なんとかついていける体力と根性があったのが、運の尽きだな」 そう言いながら力なく笑う彼の、微かに震える口角を——文太はただ見つめていた。 梓を取り囲むどことなく寂しげな雰囲気は、決して生まれもったものではないだろう。 口数は少ないし、感情が表出しにくいのは元の気質だろうが、それでも時折見せる笑みには、本来の明るさがにじんでいた。 兄はどこまでも自己中心的だと、文太は改めて思った。 自分のペースに梓を巻き込んでおきながら、自身は冬の山に飲まれ、あっさりと消えてなくなったのだから————
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