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半ば惰性でシャッターを切る梓の、そのうなじ——日に焼けた部分と、襟ぐりから覗く白い部分との境界に見惚れながら、ふと思う。
彼は、何の目的で今も山に登っているんだろう。
もう兄はいない。
山が好きなのかもわからないと、以前、テントの中で口にしていた。
それから救助をしている時の冷静な表情と、如月避難小屋で初めて会った時の脆い姿がぐるぐると渦巻いて——文太は猛烈に、彼を抱擁したくなった。
「梓さん」
しかし、そんなことができるはずもない。
文太は、拳を握りしめて、彼から一歩身を引くと、ニッコウキスゲの群落に目をとめた。
白い風に晒されて頭を揺らす、黄色い花びらを指の腹で撫でると、風向きとは反対側にしなった。
「俺に、花の名前教えてくださいよ」
梓は体勢を変えぬまま、変わらずファインダーを覗き込んでいる。
しかし、シャッターが鳴ることはなく、それが判断に迷った彼なりの——相槌のようなものなのだと捉えた。
「うちね、母親も花が好きで。花瓶にさしたり、庭でハーブ育てたり、わりと植物は身近にあったんですよ。手伝いで俺もたまに水やったりとか。だから、母親に高山植物の種類とか色々教えてあげたいなーって」
家族、しかも母親をだしに使うのは、さすがに卑怯だろうか。
口にした後で気づいたが、もう後には引けない。
梓はようやくカメラから顔を離し、体を起こした。
「花に興味あるの?」
「詳しくはないけど嫌いじゃないですよ。少なくとも兄よりかは、あると思います」
「未来はあんだけ山登ってんのに、花の名前ひとつも知らなかったからな」
梓は言いながら笑った。
その笑みは悲しみに揺らいでいるのとは違う、穏やかなものだった。
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