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夕食後、いつものように梓のテントまで来ると、前室に置いてある小鍋にカトラリーを打ちつけて合図をした。
布越しにひとりぶんの影が揺らめいたのを確認してから、入り口のジッパーを下ろし、中に入る。
「こんばんは」
梓はシュラフの上に横になり、文庫本で顔の下半分を覆ったまま「ん」とだけ言った。
それから大きく伸びをして、気持ちよさそうな声を出す。
その掠れた声に、先日目撃した情事の記憶が引き摺り出されそうになって、文太は焦った。
短く息を吐きながら、高い声で喘ぐ梓の————
「今日もなんか見つけたのか」
穏やかな彼の声に、膨らみかけた妄想はたちまち萎んだ。
「あ、これ……。テン場からちょっと南に行った、師走キレット手前の斜面に咲いてたんですけど」
スマートフォンを渡すと、彼は腕で自身の頭を支えながら、画面を眺めた。
目の動きは鈍く、瞼はぴくりとも動かない。
どうやら、珍しい花ではないらしい。
「チングルマだな」
「チングルマ?」
「うん。横にのびながら咲くやつ。群落をあちこちで見かける」
白い花びらの付け根がほんのりと黄色く染まっている、小さな花。
文太の見たものは群落というほどではなかったが、たしかにひとかたまりになって、いくつかの花を咲かせていた。
「なんでチングルマなんですかね」
「稚児車がなまってチングルマになったらしいけど、本当かどうかは知らない」
「なまらせる必要ある? 悪意を感じるなー。なまらせた人、絶対下ネタ的なノリでしょ」
「お前、小学生みたいだな」
は、と声を出して梓が笑ったのが嬉しくて、文太もつい口角が緩んでしまった。
「まぁ、ぶっかけうどんにもいちいち反応する男ですから……」
こちらがくだらないことを言うと、今みたいに笑ってくれる。
冷たい印象を与える切れ長の目尻に皺が寄るのが、意外で可愛らしかった。
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