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「じゃあ、ちゃんとシュラフ入って寝てくださいね」
このまま見つめていたら、炎はやがてこちらに燃え移り、理性をじりじりと溶かしていきそうだ。
入り口のジッパーを下ろし、半身を前室に投げ出すと、梓はかすれた声でつぶやいた。
「帰るの?」
「はい。明後日、楽しみにしてます」
文太は、振り返ることなくサンダルを突っかけて、完全に体をテントの外へと出した。
それでようやく振り返り、梓のほうを見る。
彼はまだぼんやりとこちらを見ていた。
「おやすみなさい」
手を振りながら完全にジッパーを上げ、前室を出る。
外に出てから、白い吐息をゆっくり吐いた。
——梓は、たまにああなる。
いったん眠気に支配されると、ひどく無防備になるのだ。
最初のうちはてっきり誘われているのかと思った。
文太さえそう捉えるのだから、奈良をはじめ、多くの人間が一線を越えてしまうのも無理はない。
今回だって、うっかり彼の体に触れてしまったら、自分もそのひとりになってしまっただろう。
だから文太は、毎日会いに行きはするものの、長居はしないように努めていた。
それに、彼がこちらに対してそのつもりでいないことは、逢瀬を重ねるごとになんとなくわかってきたからだ。
彼は寝入端、どうも文太と兄である未来を混同してしまうらしい。
一度、寝たのを確認して外に出ようとしたら、咄嗟に腕を掴まれたことがあった。
その時、彼は焦ったような声で、たしかに「未来」と言ったのだ。
兄の残像に取り巻かれるたび、文太は息苦しくなる。
梓がまどろみ、兄の夢を見ている間、彼の望むがままに兄を演じてやるこの時間——なぜだか叫び出したくなるのだった。
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