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梓の後を追っているうちに、文太は厨房に置いてきたままの菓子のことを思い出した。
明日、一緒に出かけるからと、朝の空き時間に蒸しパンを焼いておいたのだ。
しかし、別に今渡す必要はない。明日はずっと一緒なのだから————
梓のテントの前まで来ると、先ほど食堂にいた例のふたりが、テント場にいるのが目視できた。
そちらに気を取られていたら、梓が立ち止まったのに気づかず、ぶつかってしまう。
しかし、こちらが謝る前に、なぜか彼が「ごめん」と言った。
「明日の約束、ダメになった」
謝罪があった瞬間に予感はしていたが、それでも改めて言われると、ショックだった。
笑顔を繕おうとしても、口角になにかがぶら下がっているかのようだ。
それでも、なんとか明るい声で切り出した。
「あー……なんか予定入っちゃいました?」
「匠と出かけることになった。急に明日、あいつの予定が空くことになったから——」
須崎の名前が出た時、落胆が文太を釘刺しにした。
彼がこちらとの先約よりも、須崎との予定を優先させた——そうすることがさも当然というような態度に、ショックを受けたのだった。
「それって、そんなに大事な用なんですか」
食い下がられると思っていなかったのか、梓は口をつぐんだ。
彼はどうやら、文太の傷ついた表情に多少の気まずさを感じているようだった。
「山に行くだけだ」
「じゃあ俺も行きます」
なぜ引き下がれないのか、自分でもわからない。
原因が須崎にあることは明らかだが、まさか彼に対する対抗心が、自制できないほどにあるとは——文太自身も想像していなかったのだ。
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