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「じゃあ俺でいいじゃないですか」
「は?」
「梓さん、別に相手は誰でもいいんでしょ。奈良さんでも、須崎さんでも——俺でも」
とんでもないことを口走っているという自覚はあった。
しかも、自分の意図している——育みたいものとは間逆なのに。
わざわざ誤解させるようなことを、なぜ言っているのだろう。
「お前はダメだ」
それでも、真っ向から否定されると、言葉は刃となり、かまいたちのように文太の一部を抉る。
傷だらけになっているからこそ、今更引き下がれなかった。
「なんでですか」
「興味ないから」
そしてまた新たに刃先を当てられて、文太はついに押し黙った。
違う。
こんなこと言うつもりもなかったし、知るつもりもなかった。
「わかりました。もういいです」
俯いたまま踵を返すが、呼び止められることも、足音が追って来ることもなかった。
このまま食堂に戻ったら、楠本に詮索される。
そう危惧して、わざわざ玄関口まで回った。
——わかってはいた。
奈良と須崎は違う。たぶん、須崎とはもっと深い関係なのだろう。
梓にとって、いちばん近しい人間なのであろうことも。
文太は思い上がっていたのだ。
自分ももしかしたら、須崎と同じ土俵にいるんじゃないかと。
しかし、とんだ思い違いだった。
同じ土俵にいるのは自分じゃない。姿をなくしても未だそこに居座り続けているのは———
文太は鼻からゆっくりとため息を吐いて、膝を抱えたまま、すのこに座り込んだ。
薄い木板がきしきしと軋む。
憤りなのか、それとも悲しみなのか。
吐き出した息は、まとまらない感情につられて、いつになく震えていた。
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