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屋敷に帰り着き、車を降りる。
今日は午後からいつも通り診療がある。
その準備のために診療所へ向かおうとする雨京を、螢は意を決して呼び止めた。
「先生」
何か心を決めたような螢の表情に、振り返った雨京はかすかに首を傾げた。
「どうした」
「……それほど長くはかかりません。少しだけ、お時間を頂きたいのです」
心臓が高鳴る。
やっぱり何でもないですと言って、逃げ出したくなるような気持ちに駆られる。
それでも。
深く息を吸って、螢は顔を上げた。
「わたしは、ずっと先生に言いたかったことがありました。前みたいにノートに書くのではなくて、いつか声を出せるようになったら、自分の声で伝えたいと思っていたことです」
「…………」
「先生が好きです」
雨京が息を呑む音がした。
ゆっくりと、水色の瞳が大きく開かれていく。
「ずっと、ずっと、わたしは先生のことが好きでした。先生と出会えて……一緒にいられて、わたしはずっと幸せだったんです。それを、どうしても、伝えたくて」
頬にどんどん熱が上っていく。
こんなことをいきなり言われて、雨京はどう思っているのだろうか。
おかしな娘だと思われていないだろうか。
今すぐにでも俯いて雨京から視線をそらしてしまいたい気持ちを、必死に抑え込む。
やがて、雨京が言った。
「私がお前をどう想っているかは、もう伝えてあったな」
「……はい」
「私の気持ちは、今も変わらない。――螢」
「…………!」
名を、呼ばれる。
そっと優しく、けれど力強く、抱きしめられる。
「愛している」
この気持ちを、何と言い表したらいいのか。
愛おしさと、嬉しさと、幸せと――世にある美しくきらめくもの、すべてが心の中に急に注ぎ込まれたような、このあまりにも、明るく優しい彩りを持った感情を。
わからない。
ただ、螢が雨京に返すべき言葉はたった一つだけだった。
「わたしも、です」
雨京の背に手を回して、抱きしめ返す。
「愛しています。先生と一緒に……、生きていきたいです」
涙が滲む。視界が潤む。
視線を絡めてから、ゆっくりと目を閉じて。
もう二度と触れ合うことはないと思っていた唇が、重なる……
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