1.すべてを失って

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 それからというもの……  当主の命令だからと言うだけで、特に何の説明もないまま、螢は信次によって車に乗せられていた。  車など、帝都も郊外になれば、ほとんど見かけない乗り物だ。  それだけで、信次が仕えているという蓮水院家の財力を思わせる。 「詳しくは屋敷に着いてから、旦那さまが説明なさいます。彼――瀧村さまが仰ったように、蓮水院家は代々医術を生業(なりわい)としてきた由緒正しい家柄です。ご安心くださいますよう」  帝都の中心部へと車を走らせながら、信次は螢にそう告げた。  ――蓮水院雨京。  螢を連れてくるよう命じた人物のことを、和正は知っていた。  信次が近くに停めたという車を取ってくる間、和正が螢に教えてくれた。 『雨京先生。僕たちはみんなそう呼んでいたよ。彼は軍医をしていたんだ』  五年以上にも及んだ外国での戦争の間、雨京は軍医として出征し、傷病者の治療にあたる衛生兵や看護師を統率する立場にあったのだという。 『先生のおかげで手足を切断せずにすんだ兵士は、数え切れないほどだ。まだ確か二十八歳なのに……彼の持つ技術は最高峰で、天才だって言われてる』  しかしその一方で、極めて厳格で冷然とした人柄でも有名らしい。 『何しろ、天才だからね。彼に教えを請いたいとか、力になりたいとかで、何人も研修医や助手がついたんだけど……指導が相当厳しいのか、みんなすぐに逃げ出してるらしいんだ。僕も怪我をした時に何度か治療してもらったことがあったんだけど、確かに怖そうな人だったかな……』 (そんな方が、どうしてわたしを……)  つながりが見えなかった。  宗介と同様、出征してずっと軍にいたというのだから、その時に宗介と知り合ったのだろうか?  だとすれば、螢に何の話があるというのだろう。  考え込んでいるうちに、車はどこかの屋敷の前に停まっていた。  窓越しに外を眺めれば、屋敷の窓のいくつかから灯りが漏れている。暗闇にうっすらと浮き上がって見える輪郭(りんかく)から、その屋敷が相当に立派な建造物であることは傍目(はため)にも明らかだった。 「到着しました。もう夜も遅いですから、旦那さまへのご挨拶は明日にと仰せつかっております。……お母君を、亡くされたそうですね」  おもむろにうなずけば、信次は悲しげに眉尻を下げた。  信次は、螢が一度も声を発していないことについて、指摘してこなかった。おそらく家族を亡くした悲しみで、声一つ出せないものとでも思われているのかもしれない。 「お悔やみを申し上げます。……大変なことがあって、お疲れでしたでしょう。どうか今夜は、ゆっくりお休みになってください」
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