1.すべてを失って

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 屋敷に入ると、螢を部屋まで案内させるために、信次は使用人頭と思われる女性を呼んだ。  洋風の豪邸――外観から予想していた通り、屋敷の内部はあまりにも広かった。  赤い絨毯(じゅうたん)が敷かれた回廊には、時おり花を飾った台が置いてある。美しい絵画が飾られた壁。鏡のように光り輝く硝子窓。 「今夜はどうぞ、こちらの部屋をお使いくださいませ」  扉の向こうを目にした途端、一瞬動きが止まってしまう。  橙色の明かりを灯すシャンデリアが照らすのは、思わず後ずさりしてしまうほどに美しい部屋だった。  華やかだけれど落ち着いた色合いをした絨毯に、一目見ただけで上質とわかる洋風の家具。  なぜ突然、こんな分不相応すぎる待遇を受けることになったのか、まったく状況が理解できない。  使用人頭は翌日の予定を説明し、丁寧にお辞儀をして去っていった。  部屋の中に一人きりになった途端、力が抜けてその場に座り込んでしまう。 (雨京、先生……)  蓮水院家の若き当主。  ――厳格で、冷酷な天才医師。  明日の朝、螢は雨京と顔を合わせる。  そして、ここに呼んだ理由について、彼から説明を受けることになると使用人頭は言った。  理由を想像してみればみるほど、よくない話であることだけは確かなように思えた。  葵の死をきっかけに、菊代と宗介の夫婦仲は悪化した。  もともと神経質で、情緒不安定な気質のあった宗介がおかしくなり始めたのは、この頃からだった。  仕事が終われば遊び歩いているのか、ほとんど家に帰ることがない。たまに帰ってきたと思えば、軍服におびただしい酒の臭気をまとわりつかせ、ひどい時には女ものの香水の匂いをつけてきたことさえあった。  それだけではない。宗介は賭け事にはまり込んでいた。そのせいもあるのか、宗介に貸した金はいつ返してくれるのかと、見知らぬ人達が家に上がり込んできたことだって―― (父さまは……雨京先生にも、迷惑をかけていたのね)  いつものように、金を返せと怒鳴られるのだろうか。それとも、雨京から何か物を盗んだり、もしかしたら壊したりしたのかもしれない。宗介は、一度癇癪(かんしゃく)を起こせば何をしでかすかわからない人だったから。  何もかも、燃えてなくなった。  加々見家にはもはや、何の役にも立たない螢の身一つしか、残されていないというのに。  もう、どうなったっていい。  ただ……ひどく、ひどく、疲れ切ってしまった。  糸の切れた人形のように、螢は床に座り込んだまま、長い間立ち上がることすらできなかった。
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