1.すべてを失って

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 ふいに(まぶた)の裏に光を感じて、螢は目を覚ました。  鳥のさえずりと、すばやくカーテンが開かれる音。  明るく(まぶ)しい朝日が目にしみる。 「おはようございます、螢さま。昨夜はよく眠れましたか?」 「…………!」  背に冷や水を浴びたように、一気に意識が覚醒した。  眠れないと思っていたのに、いつの間にかまどろんでいて、朝を迎えたらしい。  寝台から勢いよく身体を起こすと、カーテンを開けていた使用人らしき娘が、穏やかに微笑んでこちらに視線を向けてきた。 「まだ休んでいて大丈夫ですよ。今、食事をお持ちしますから、ちょっと待っていてくださいね」  まもなく運ばれてきたのは、料理店でしか食べたことのないような洋食の数々だった。  ベーコンを添えた目玉焼きに、野菜を練り込んだキッシュを添えた上品な皿。それから、卵を溶いた温かなスープに、香りのよい紅茶を湛えたティーカップ。  あまりお腹はすいていなかった。  せっかく用意してもらったのに、残すことになってしまうかもしれないと思ったけれど、そんな心配は要らなかった。  ……こんなに温かな料理を口にするのは、何年ぶりなのだろう。  どれも、とても優しい味をしていた。  食事を終え、支度を整えると、部屋の外ではすでに信次が待ち受けていた。 「さて、それでは参りましょうか。申し訳ありませんが、少し歩くことになります。旦那さまは今、この屋敷の離れにある診療所にいらっしゃいますので」  ――診療所。  信次の言った建物が見えてきたのは、屋敷を出て、広い庭園を何分も歩いた後のことだった。  それは、屋敷に比べれば、こじんまりとした建物だった。  白い壁に、淡い翠色の三角屋根。  玄関口からは煉瓦(れんが)小路(こみち)が伸びていて、その周囲に緑豊かな庭が広がっている。  ふいに明るい笑い声が聞こえて、螢は顔を上げた。  目に入ったのは、診療所を出て、楽しそうに話しながら煉瓦の路を歩いていく母子の姿だった。 「本当に、こんなに早く治ったのは雨京先生のおかげだわ。ちゃんと先生にお礼言った?」 「言ったよ。それよりお母さん、見て! 千代紙のお花、先生にもらったの!」  母子の姿をつい、見えなくなるまで目で追ってしまう。  そんな螢に、信次が少し苦笑しながら話しかけてきた。
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